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第3回研究大会 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/07/16 (Sun) 14:24:01

○第三回北沢川文化遺産保存の会研究大会

 区のおしらせ「せたがや」7月15日号に以下のように載っている。

区の後援事業第3回北沢川文化遺産保存の会研究大会「世田谷代田の音楽学校の歴史」
8/5(土)13時半~16時半 スカイサロン(北沢タウンホール12階) 500円 (同会 電話番号:3718−6498きむら) 先着70人

*問い合わせが来ているが、申し込みの必要はありません。先着70名となっている。
 開場が一時なのでその時間に来ていれば大丈夫ではないかと答えている。
・音楽関係で世田谷代田にそんな学校があったとは知らないのでぜひ聞きたい。
・消え去った音楽学校のことを取り上げてなさるのは大変に貴重なことです。
 問い合わせがあった人からの反響だ。

Re: 第3回研究大会 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/07/17 (Mon) 16:34:29

8月5日、当会の、研究大会の要項です。ぜひご参加ください。

Re: 第3回研究大会 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/07/17 (Mon) 22:11:23

〔「予習」用〕

この板には再掲ですが、Dr.Eria の学位論文そのものです。

久保絵里麻「鈴木鎮一と才能教育―その形成史と本質の解明」
http://hdl.handle.net/10723/1942
の pp.96~

この學校の、複雑怪奇な沿革と奇怪な顛末。あらかじめ、頭に入れておく方がよいかもしれませんので。

Re: 第3回研究大会 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/07/20 (Thu) 08:21:10

「研究大会の席はまだ空いていますか?」
「いや、予約は取っていません、広報では先着70名としています。やはり同じような電話がありますのでこう答えています」

……開場が1時なので、その時間に来ておられれば多分入れると思います。

「そうですか、ありがとうございます」

Re: 第3回研究大会 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/07/25 (Tue) 20:49:24

いよいよ研究大会も近づいてきました。

 8月5日、午後から研究大会を開催します。
 29日(土)午後14時から大会を手伝ってくださる方との打ち合わせを開きます。

 ボランティアとして手伝ってくださる方、おいでください。が、我らの会は参加できる人が参加する、いつもそうです。強制は決してしません。準備会は無理だけど、本番は大丈夫という方々も大歓迎です。当方に連絡をください。

Re: 第3回研究大会 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/07/26 (Wed) 18:42:14

○「遅くなってしまいましたが、まだ席は空いていますか」
 「予約は取っていないのです。先着順ということで広報しております。心配でしたら、午後一時開場ですからそのときに来られたら座れないということはないと思います」

 今日、問い合わせの電話があった。関心を持たれているとう感触は、こういう電話からも分かる。

 懇親会にも、皆さんおいでくだささい。

第130回街歩き - 北沢川文化遺産保存の会

2017/07/07 (Fri) 17:55:44

第130回 都市物語を歩く 地下を辿って江戸を巡る 

7月15日(土)
 午後1時 東京メトロ千代田線日比谷駅内幸町方面改札
(代々木上原方面から来ると後方の改札)
 案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
*地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる 

コース: 日比谷駅→東京宝塚劇場→日比谷公園→馬場先門→二重橋前駅→和田倉門→東京駅→赤レンガ駅舎→大手町駅→将門首塚
*夏の時期は暑い。街歩きには不向きだ。それで計画したのが地下道を辿って江戸東京を巡るという企画だ。地下道を歩き、頃合いのところで地上に出、見学するものだ。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて
(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090-3501-7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

Re: 第130回街歩き - きむらたかし@三田用水

2017/07/16 (Sun) 17:08:37

〔あはは…〕

 昨日、午後1時からの月島での会議に行くため、有楽町線に乗り換えるべく、千代田線を日比谷で降りて歩いてたら、ホームの向こうの端のキャップをかぶった「どこかで見た人」とすれ違いました。
 気が付いたのは、有楽町線に乗換え用の改札を出たあたり。「金子善行さんじゃないか!」
 夜、帰宅して、このページを見たら、千代田線日比谷駅内幸町寄り改札で集合の由。あれがシモキタのホームなら速攻でわかったのでしょうが。

Re: 第130回街歩き - きむらたかし@三田用水

2017/07/19 (Wed) 19:51:45

〔今回の…〕

ツアーのエリア。かれこれ3分の1世紀(南に北に異動はありますが)
づっと仕事場があるので、却って、あまり変化が目につかないのはシ
モキタと同じ。

改めて思い返すと…

個人的にみた大きな変化のベスト2はというと

●東京中央郵便局

かつては、東京駅と結ばれた地下道経由で、列車(オユXXとかいった
客車とか、クモユニXXとかいった電車)で大量に発受される郵便物を
捌く、文字通り東京の中心の、ということは日本の中心の郵便局でし
た。
今のKitteの高層部のあたりにトラック・ヤードがあって、昼夜を問わ
ず、頻繁に赤いトラックが出入りしていたのですが…

郵便物の輸送がトラックにシフトし、オユやクモユニが消え、最後に
トラック・ヤードも消え、東京の郵便のハブは(どこにあるのか知り
ませんが)銀座局なるものなってしまい、「名ばかりの「中央」郵便
局」になってしまいました。

●船の信号機

ちょうど東京駅丸の内口駅前の通り、大手町との間のほぼ中間に、こ
んな
http://ameblo.jp/yokohamano-kagemaru/entry-11577846456.html
のが、(当時としては、ですが)高層ビルの南向きの壁に張り付いて
いました。

正式には「航行管制信号」
http://www.kaiho.mlit.go.jp/03kanku/tokyo/kansei/pdf/signals_east-passage.pdf

要するに「東京湾を航行する船のための信号機」なのですが、特に夜
点滅しているときは、あんな奥まった場所でも、「海が近い」ことを
実感できる施設だったのですが、すぐ南隣に、同じような高さのビル
が建ち、無くなってしまいました。

M30ころ 高畑村 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/07/13 (Thu) 00:28:16






















〔母家の…〕

下北沢X物語(3317)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか―
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52048985.html

つながり。

[推定]M13測M30修測の1/20000迅速測図「川崎驛」中の高畑村(中央やや南西の矢印)です。

当地では、鉄道が、台地から多摩川(地図の表記では「六郷川」)に向かって下り勾配の切りとおしになっているようです。

Re: M30ころ 高畑村 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/07/13 (Thu) 08:32:05

現地を歩いてみると切り通しではなく築堤であったと思われます。

Re: M30ころ 高畑村 - きむらたかし@三田用水

2017/07/13 (Thu) 17:20:42

[タヌキが…〕

切通し上の東陽院の杜に潜んでいて…
頃合いを見計らって「それっ」と斜面を駆け下り…
暗がりを利用して汽車に化ける…
っていうのを「平成狸合戦」風に頭の中で描いていたのですが…

築堤上となると、あまりに明け透けで、しかも衆人環視。

どうも「絵」になりませんね。

Re: M30ころ 高畑村 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/07/15 (Sat) 01:59:21

〔「絵にならない」と思ったら、やはし…〕

でした。

六郷川橋梁の前後が高架化されたのは1971年。
https://www.know.cf/enciclopedia/JA/%E5%85%AD%E9%83%B7%E5%B7%9D%E6%A9%8B%E6%A2%81_(%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%9C%AC%E7%B7%9A)#cite_note-1

それまでは、河岸段丘の上は切通しだったはずです。

Re: M30ころ 高畑村 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/07/15 (Sat) 02:14:08

〔ありました〕

1947年8月8日連合軍撮影の空中写真(USA-M389-8)

道路が上、線路が下、です。

【追記】

猪俣賢司「東京の地理学と小津安二郎の映画技法」という論文によると

小津の「晩春」の、このあたりを走る横須賀線のシーンで、旧橋梁のあたりを見ることができるようです。

http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/9651/1/124_45-73.pdf

のp.10~

一見の価値はありそうです。笠・原の盤石コンビなので、かりにペケでも、見て損した気にはならないでしょうし。

ただ、昔撮ったビデオ、どこにしまい込んだやら。

Re: M30ころ 高畑村 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/07/15 (Sat) 10:13:32

〔たぶん…〕

ここで走行シーンは終わってしまいますが、画面中央やや左の明るく抜いた丸のあたりかと…

Re: M30ころ 高畑村 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/07/15 (Sat) 18:04:17

六郷川橋梁への取り付き部分がかつては築堤ではなく切り通しであったこと貴重な指摘です。

①一つは、切り通しであったことで高畑の地形が名前の通り高い畑であったことが想像できる。

②もう一つは、狸がなぜ汽車に化けたか、その理由として挙げられるのが巣穴を壊されたからというものです。切り通しだったら線路敷設のために大がかりな土木工事が行われたということになります。そのときに巣穴も壊されたと考えられる。

 偽汽車は古代と近代のはざかいで起こったことで、文化現象としても貴重です。

 今日、街歩き130回を終了し、ブログでは「地下道を辿ってお江戸見学」を報告しますが、偽汽車は再度話題にしようと思います。

アメリカの女性ボマー(bomber)? - きむらたかし@三田用水 URL

2017/06/21 (Wed) 22:20:55





























〔ちょっと珍しい…〕

写真を、ジョージ・シルクという雑誌ライフの専属フォトグラファーの写真(シルクの撮った写真-オリンピックの際の北欧の女性陸上選手の写真が有名-でなくて、シルク本人の写真)を探しているとき見付けました。

http://www.allposters.co.jp/-sp/B-17-Flying-Fortress-Bomber-During-Bombing-Raid-Launched-by-US-8th-Bomber-Command-from-England-Posters_i3594550_.htm
イギリスの基地から発進したアメリカの爆撃機B-17機内の写真。

B-29と違って、与圧もエアコンもないので、酸素マスクを着け、分厚い防寒服を着ています。

この写真を撮ったのは、冒頭の写真の、同じくライフの専属フォトグラファーであるだけでなく、その創刊号の表紙の写真を撮った、マーガレット・バーク=ホワイトという女性で、防寒服を付け、右手に空撮用カメラ(ただし、↑の写真は、このカメラ―近すぎてマトモに写らない―ではなくて、多分ドイツ製のローライの2眼レフと考えられます)、左手に飛行帽とゴーグルを持ち、首からマスクをぶら下げています。

訓練ではなく、実際の戦闘場面で、爆撃機に乗った女性は、あるいはこの人だけかもしれません(ただし、ユーロッパ戦線)。

Re: アメリカの女性ボマー? - 北沢川文化遺産保存の会

2017/06/21 (Wed) 22:36:16

日本人の男性に見せない方がいいかもしれません。日本飛来のB29には女性の乗組員がいたとかたくなに信じている人がいますから……墜落した飛行機にハイヒールがあったということを言っていた海軍第一四期飛行予備学生の一人は言っていましたね。

 確か経堂に墜落したB29にも女性搭乗員の話がうわさとしてありましたね。日本人男性の願望かもしれませんね、それが都市伝説になった……

Re: アメリカの女性ボマー? - きむらたかし@三田用水 URL

2017/06/21 (Wed) 23:08:01

〔ハイヒールは…〕

国に残してきた奥さんか恋人のものかも(柳田國男いうところの「妹の力」というやつ)。

なにしろB-29ですから靴1足位なら余分に積んでも飛行に影響ないでしょうし…

そのうえ、あちらは、こういう
http://www.roomie.jp/2014/01/135544/
世界でしたし。


そういえば、アポロの月着陸船に無断でゴルフクラブを積んでいって、クビになった宇宙飛行士がいましたっけ。

こっちの場合は、「なぜか」軌道が狂って、地上から何度修正してもまた狂ってしまった由。

Re: アメリカの女性ボマー? - きむらたかし@三田用水 URL

2017/06/21 (Wed) 23:26:47

〔人間考えることは…〕

洋の東西を問わないようで、冒頭の写真、アメリカの兵隊さんの間でも引っ張りだこだったようです。
http://www.gettyimages.co.jp/license/72384910

ところで、このバーク=ホワイト。糸車を回すガンジーの写真が有名なのですが、イギリス映画の「ガンジー」の中で、その役を演じていたのがキャンディス・バーゲンで、彼女自身定評のあるフォトグラファーのせいもあるのでしょうが―おそらく、「自分が、この状況でガンジーの姿を写真でとらえたいとすれば、どうするだろうか」との発想が演技に反映しているように思えますが―雰囲気そっくり。
http://www49.atwiki.jp/kojirou4/?cmd=upload&act=open&page=%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BC&file=IMG_4842%20-%20%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.JPG

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/39/d84e8f7926ea1a120c0916d6f64ca4f3.jpg


(ガンジー役のイギリスのベン・キングズレーという俳優も、これまたそっくり
http://www49.atwiki.jp/kojirou4/?cmd=upload&act=open&page=%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BC&file=IMG_4823%20-%20%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.JPG
で、この映画のインドでのロケ中「ガンジーが生き返った」と、近隣から「参拝者」が押し掛けたきた由)。

Re: アメリカの女性ボマー? - きむらたかし@三田用水 URL

2017/06/23 (Fri) 23:24:31

〔この人って…〕

アメリカ人にとっては、現代版の
アニーオークレー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4
なのかもしれませんね。

オークリーは銃ですが、バーク=ホワイトはカメラを持ったら「百発百中」というわけです。

Re: アメリカの女性ボマー(bomber)? - きむらたかし@三田用水 URL

2017/07/11 (Tue) 19:34:16





























〔ジョージ・シルクの…〕

探していた写真、見つけ出しました。

https://i.publiclab.org/system/images/photos/000/015/914/original/tmp_8630-IMG_20160503_1357011447322798.jpg

初めてこの写真を見たときの、先ず持った感想は、

・「紺ブレ」にグレーのフラノのパンツ。
 なるほどこれが、正統派Time/Life のフォトグラファーのいでたちかぁ。

でも、それもさることことながら、

・こういう「でっかい人」が持つと、あのニコンF(よくよく見ると、写真のは Nikonmart -日本名 Nikomart-ですが)が、まるでお子様カメラみたいに見える。

と思ったものでした。

もう1枚

https://i.publiclab.org/system/images/photos/000/015/913/original/tmp_8630-IMG_20160503_135711-1356164696.jpg





世田谷の風景資産を歩く - 北沢川文化遺産保存の会

2017/06/29 (Thu) 11:02:59

七月二日 世田谷の風景資産を歩く

 後半は、北沢川文化遺産保存の会が案内を担当する。

アコやぎさんから演奏会のお知らせ - きむらたかし@三田用水 URL

2017/06/23 (Fri) 19:50:08

梅雨入りにも関わらず、青天白日な折りご活躍かと思います。

今月も来週月曜に下北沢の楽園で演奏しています。
よろしければ、応援頂きますよう、お願いいたします。
ーーーーーーー
東京ゆかりの皆様へ。 梅雨入りの関東でご活躍かと思います。 こちらも、下北沢を拠点に、各地を賑やかしを経て、ホームのお店で祝宴のトップを飾ります。 来週26月曜日、是非!応援頂きますよう、よろしくお願いいたします。 http://www.livebarbigmouth.com/schedule/2017/2017.06.html
ーーーーーーーーーーーーーー
アコーディオンのヤギ
青柳正太郎
080-1243-3210
1234yagi@gmail.com
FB:
https://www.facebook.com/syoutarou.aoyagi.5
イベント用FB
https://www.facebook.com/狸小路はポンポコシャンゼリゼ-1161054934002779/

第10回戦争経験聴く会語る会 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/06/20 (Tue) 17:17:13

5月27日に下北沢都民教会で開催されたとき、武揚隊の高畑少尉の甥御さんが参加されたそのときに叔父を偲ぶ歌を披露された。これをYouTubeにアップした。
 もう一つ、武揚隊の歌を要望の応えて作り、そして歌ってくださった。作詞・作曲・歌唱:池田宗祐さん

https://www.youtube.com/watch?v=yEX8dr2C44M

三田用水ツアー参加者急募 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/06/19 (Mon) 20:37:21

〔下記のような事情で…〕

代官山系統の参加者が、激減しそうなことがわかりました。

と、いうことで、急に10数人分(とはいえ、最大でも25人位が限界ですが)の余裕ができました。

参加、ご希望の方は、会宛てお申し出ください。
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/2017-05-01.html

電話の場合、 米澤邦頼 090-3501-7278
メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

 なお、これまで2回ご参加いただいている、渋谷区の「歩く渋谷川」関係者の方々にも、不本意ながらご案内を差し上げていなかったのですが、これから、当方から個別にお声がけいたしますので、その点ご諒承くだしさい。

戦争逸話もろもの - きむらたかし@三田用水

2017/05/25 (Thu) 00:36:41

[2017年5月27日は…]
本業の方で、浅草・花川戸という粋な場所で、講演+パネリストをしなければならないので、お手伝いできないため、このスレッドで、本家
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52045772.html
にからんだ、先の戦争の逸話を順次いくつか。


実は戦争中、アメリカも士官の不足に困っていたそうです。

例えば「ヒコーキ乗り」は今でもそうですが、その資格は高等教育を受けた士官に限られていました(その点では、こちらもほぼ同様で「下士官」〔=「準士官」とも呼ばれたようです〕)以上。

要するに、単なる「兵」と、「士官」ないし「下士官」はとではランクがまるで違うわけです(たとえば、「士官」つまり少尉以上は軍服は「自前」言い換えれば「自腹」でしたが、一定の基準内ならば自由になデザインのものでOKだったようです)。

 したがってヒコーキ乗りである特攻隊員はすべからく下士官以上なので、「特攻『兵』」と表記するのは、ものすごく失礼なわけです(特攻隊員ではありませんが、陸軍で無線交信に従事していた確か伍長さんを「無線兵」と書いて、ご本人から叱られたことがあります)。

で、本題に戻りますが…

アメリカでも、軍自身による養成だけでは士官の需要に追い付かず、大学生(当然、高等教育の前半段階は受けているので)からの志願を募っていたとのこと。

戦時中の標語に「がんばれ、敵も必死だ」というのがありますが、あながち嘘ではなかったことになりますね。

Re: 戦争逸話もろもの - きむらたかし@三田用水 URL

2017/06/05 (Mon) 21:54:21

[暮しの手帖社が「戦争中の暮しの記録」の続編の原稿募集中]

同社が、暮しの手帖96号として昭和43年1月に発行された、この本、単行本化されて今でも新刊で手に入れることができます。

 暮しの手帖は、祖母がかつて定期購読していたのですが、そのうち「これは残しておかねば」と2冊だけ取り置いていたうちの1冊がこの号。

 戦後70年を過ぎて、その続編の原稿を同社が募集していることを、新聞で目にしたので、調べると

https://www.kurashi-no-techo.co.jp/70th

#Quote
創刊70周年記念企画
「戦中・戦後の暮しの記録」を募ります
“聞き書き”もぜひお寄せください
 暮しの手帖社では、これから後に生まれてくる人のために、残しておきたい、残しておくべき一冊を作りたいと考えています。それが、創刊70周年記念として来夏出版予定の『戦中・戦後の暮しの記録』です。ふたたび戦争をくり返さないためにも、みなさまにご協力いただきたいのです。
 今年は終戦から72年を迎えます。いまやほとんどの世代が、戦争を知らない時代になりました。ですから、「戦中・戦後の暮し」について、ご自身の体験を綴るのはもちろん、戦後生まれの方には、“聞き書き”をしていただきたいのです。ご家族やお知り合いが体験された、当時の様々な話を、ぜひお聞きになってください。そして、文章にまとめてお寄せください。
 48年前、同じように読者に原稿を募って一冊に編み上げた小社刊のベストセラー『戦争中の暮しの記録』があります。今回は戦中の記録に加え、終戦直後からしばらくの間の「戦後の暮しの記録」も募集いたします。敗戦の虚無感と、瓦礫のなかから、人々はいかに立ち上がり、何に希望を見出し、どうやって暮らしてきたのか。私たちは、そうした記録も残しておきたいのです。どうか、ふるってご応募ください。
#UnQuote

とのこと。

 聞き書きでもよく、また、戦後の話でも昭和25年くらいまでの話ならよいようですので、祖母や父などの話を、思い出し、思い出し、何か書いて遺せないか思案中です。

占領軍用区分地図 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/06/18 (Sun) 18:24:15

〔ヤフーオークションに…〕
面白い地図が出品されました

連合軍用の東京都区分地図
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s534396272

といっても、当然、全く書き起こしではなく、"NIPPON MAP Co."制作の戦前の区分地図に、地名(町名)について、変形ヘボン式ローマ字表記によるオーバーレイを赤文字でかけ、同様の表記方式による英文の地名インデクスページを付けたもののようで、1946年に、母家でもかつて話題になった連合軍接収下にあった「新宿伊勢丹の上階部で作っていた地図」の一部と思われます。

〔余談ながら…〕
「ヘボン式」の「ヘボンさん」。かの、ともに有名女優である「オードリー・ヘプバーン」「キャサリン・ヘップバーン」と全く同じで「ヘップバーンさん」というんですよね、本当は。




世田谷中原1号踏切 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/04 (Thu) 10:05:50

[空襲後に…]

撮影された、世田谷中原1号踏切の写真。

2013年4月20日に「東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅 地下化記念入場券」が発売された際に、下北沢駅南口に「地下化記念写真展」と題して掲示されていた由。
https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/10904756.html

ただし、写真下のキャプションの
・「昭和20年5月20日頃 撮影」は誤り。
  5月20日には、まだ焼けていないってば。
  焼け跡もかなり片付いているし
   ただし、線路から50メートル内は強制疎開地なので
   空襲以前に建物は無くなっています。
  写真左下に代田連絡線の分岐部らしきものが写り込んでいる
  しかも、上の方をみると架線が3組あるので、更に時期は
  後ということになる
 ので、5月24・25日の空襲後かなり時間が経っていることになる
  画面の緊張感の無さから判断すると8月15日以降
  服装からすると、早くても20年の秋口か。
  
・「世田谷中原駅…焼失直後の踏み切り」とありますが、ここは、世田谷中原駅の構内横断場ではなくて、堀之内道の世田谷中原1号踏切の方です。念のため。

Re: 世田谷中原1号踏切 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/05 (Fri) 10:19:39

〔「下北澤駅史」は…〕

決定的にデータが足りない。

つまり、今の状態では、推測の上に推測を重ねる結果になり、とどのつまりは、いわゆる「オカルト」のレベルになってしまう可能性も高そうですので。

 そうこうしているうちに、世田谷中原について、ある程度まで解明が進みましたので、

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その1~3〕

と題して、

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/05/post-3c7f.html
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/05/post-a1c4.html
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/05/post-e971.html

にまとめました。

なお、東北澤(原名・大山谷)6号踏切西にあったと思われる
初代の下北澤(原名・北澤)駅舎も、敷地に制約があることから、これと大差なかったか、もう1サイズ小さかったと思われます。

【追記】

 実はもう一つだけ、できれば確認したいことがあるのですが、データみつからず。連休も終わりかけてますので、一応これで

 Misión cumplida

Re: 世田谷中原1号踏切 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/07 (Sun) 10:55:39
































[冒頭の写真の…]

左端近くの真っ白い煙突。

新寿湯 世田谷区代田町2-916(世田谷区代田5-11-7)

ですね。

(地図は「大東京区分図・三十五區之内・世田谷區詳細圖」S11)

Re: 世田谷中原1号踏切 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/07 (Sun) 14:39:03

【できましたぁ!】

開業当時の駅名看板の掲示位置と記載事項がようやく判明。

資料は、「いよいよおじさんの雑記帳」というブログ中
https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1
の、ここ

https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1

戦後の写真ですので、最上部の会社名は、オリジナルの
小田原急行 の5文字から、
小田急電鐵 の5文字に代わっているはずですが、文字の配置は開業時と同じフォーマットです。

開業時の駅の写真は何枚かあるのですが、2行目の
O.E.R.
がこれまで読み取れなかったのです。

考えてみると、小田原急行も小田急電鉄も、英訳して頭文字にすると
O.E.R.
考えましたねぇ。利光さん。

Re: 世田谷中原1号踏切 - 米澤邦頼

2017/05/08 (Mon) 20:17:28

自分が子供の頃の駅舎は次代の建物でしたが、
駅名表示は【卋田谷代田】 世が旧字でした。

Re: 世田谷中原1号踏切 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/05/08 (Mon) 20:21:44

イメージは大切で、描かれている世田谷中原駅は南口ですよね?

Re: 世田谷中原1号踏切 - 米澤邦頼

2017/05/08 (Mon) 21:04:26

子供の頃は海側(南口)だけでした。
小学生の頃に山側(北口)ができましたが、定期券客のみ行き来可能でした。

Re: 世田谷中原1号踏切 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/08 (Mon) 22:23:08

[「世」→「卋」変更]

なお、
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/05/post-a1c4.html
で解明したとおり、この駅舎はスペース的に南口にしかおけません。
(同様の発想で、初代下北澤駅舎は、東北澤6号踏切際の上り線の側にしか、スペース上の都合で置けなかったように思います。)

今回は、入口のところに、Dr.Eria にご登場いただくいとまはありませんでした(結構、手間と時間がかかる作業なので)。

Re: 世田谷中原1号踏切 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/08 (Mon) 23:00:00

[これですね]

昭和37年、著作権の関係から、重鎮故・萩原二郎氏撮影の写真からAsIsの部分だけ抜粋。

旧字のような新字のような不思議な字体ですね、これ。


 ここまでくると、大間違いはなさそうに思うので、かの地の古老の考証を得たいところです。

 ただ、ここまで具体的に描き込んでしまったものを示すと、いわゆる「誘導尋問」になってしまう危険があります(よく、刑事ドラマで、犯人とおぼしき人物の写真だけ見せて「そのとき、この人がいませんでしたか」などと聞くシーンがありますが、あれはウソというか邪道。複数の人間の写真を見せて「この中に、ここにいた人はいますか?」と聞くのがホントです)。

 そのため、考証にあたっては、やや抽象的な図を示してその部分を具体的に説明してもらうとか、逆に、明らかに間違いの部分がある絵を示して、それが指摘できるかで記憶の信ぴょう性を確認する、とかいった工夫が必要です。

世田谷中原1号踏切「今昔写真」 - きむらたかし@三田用水

2017/06/18 (Sun) 15:29:31

〔冒頭の写真と…〕
併せて「今昔写真」となるように、先ほど所用で世田谷代田に行った折に、「今」写真を撮ってきました。

余談ながら、世田谷代田駅のトイレ、高級ホテルのバスルームというか、最先端の商業施設のトイレというか…いやはや内装・設備とも「感動モノ」で、「用がなくても入ってみる価値」があります。あそこは。

駒沢線65号鉄塔 - 米澤邦頼

2017/06/01 (Thu) 23:48:03

5月31日 駒沢線65号鉄塔、保守点検作業中です。

Re: 駒沢線65号鉄塔 - 米澤邦頼

2017/06/01 (Thu) 23:51:38

もう1枚

下北沢不思議マップ - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/31 (Wed) 10:03:19

[今、ヤフーオークションに…]

「下北沢中部図」という不思議な地図が出品されています。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q133192571

表面に印刷されている発行者は「下北沢中部会」(聞いたことない)
発行年は書いてありませんが、裏側に鉛筆書きで「昭和七年」とあり、帝都線が描かれていないので、ほぼ時期的に整合するようです。

森厳寺川の流路など、?の部分もありますが、等高線が妙にリアル。

世田谷代田新駅 - きむらたかし@三田用水

2017/05/20 (Sat) 23:06:08

今日、会合のため月島駅までの「乗換案内」を検索したところ、ウェブサイトのジョルダンのニュース
http://news.jorudan.co.jp/docs/news/detail.cgi?newsid=JD1490089134201
にこんな記事があるのを見付けました。

「小田急、世田谷代田の新駅舎公開 体験して学ぶ「環境ルーム」設置」

「4月からは毎週2日、同社社員によるガイドツアーを開催。走行時の騒音を減らす「防音車輪」と従来の車輪をハンマーで叩いて音を聞き比べる体験や、駅舎の見学会を実施。運転台の模型を操作して、電車がブレーキをかけたときに発電した電気を他の電車が使用する『回生ブレーキ』の仕組みを学んでもらう。
ガイドツアーの参加は無料。24日からホームページで受け付ける。
世田谷代田駅は地上1階、地下3階。壁や天井の窓を大きくし、少ない照明で屋内が明るくなるように工夫をした。日光を採り込んで地下を照らす『光ダクト』や『回生電力エレベーター』など最新の省エネ技術を採用したほか、親子で利用できる「ファミリートイレ」を設置した。 」


戦争経験を聴く会語る会 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/05/13 (Sat) 09:50:28

戦争経験を聴く会語る会 ボランティアを募集します。

 当日お手伝いただける方を募集します。5月21日、2時から邪宗門で打ち合わせをします。お手伝いいただける方連絡をしてください。

富士講 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/10 (Sun) 23:10:47

今日、この週末、富士講への興味が高じて、当会のF&Y&T氏が、遠路富士山麓までゆかれたと耳にしました。

当地北澤にとって、まず解明する必要のあるのは、かの「富士登山五十回碑」の由来で、とりわけ刻まれている写真の富士講の講紋。

「江戸八百八町八百八講」という言葉があるそうですが、それは江戸御府内のこと、御府外の荏原・豊島あたりまで含めれば、おそらく千を超えるべらぼうな数があったはずで、なかなか的を絞りこめません。

「困ったときのcinii」「困ったときの国会図書館」の後者で、こんな
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3051021_po_14-12.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
文献がありました。

近世期においても、一方で「お改め」(「ただの遭難」なのですが、いわば「死して屍拾う者無し」)という厳しい風習はあるものの、もう一方で、富士登山の「俗っぽさ」への批判があったことがわかります。

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/18 (Mon) 08:49:02

富士吉田のツアー、良かったです。下北沢つながりの発見に盛り上がりました。富士吉田の北口浅間神社から富士山に向かう出口の所にある富士山登頂記念の石碑の一つが下北沢の先導師安野梅五郎さんのもので、その裏に刻まれている世話人の一人が、池ノ上の石碑の先導師鈴木金太郎さんでした。つながりますね。

富士講碑@浅間神社 - きむらたかし@三田用水

2016/04/18 (Mon) 22:17:33

〔遠隔地にある…〕
とはいえ、旧下北澤村にとって貴重な遺構ですね、これは。

 北沢1丁目の富士登山碑のあるあたりから、4、5丁目にかけては、旧家では安野家のテリトリー。
 そういえば、安野家の円海稲荷がリ・ニューアルされていましたね。

PS:この富士講碑の写真、他のいろんな角度のをアップロード希望です。

Re: 富士講碑 - きむらけん

2016/04/18 (Mon) 22:31:45

米澤さんから浅間神社行って「池ノ上の石碑の先導師鈴木金太郎さん」の名を見つけたと聞きました。直感的思ったことは近隣にはもっと富士講碑があったのではないかと。

 他は知る限りでは環七と世田谷通りの角のピーコックの裏手に鎮座ましますものです。北沢や代田にも他にあったのではないかという推理です。

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/19 (Tue) 08:11:36

富士吉田の石碑の裏側の写真です
世話人の中で下北沢の筆頭(?)が鈴木金太郎さん。他にも馴染みのある名字が。

富士講碑 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/19 (Tue) 08:34:06

〔大正10年の…〕
1万分の1地図を見ると、旧高須光治宅の周辺には、数多くの石碑のマークが読み取れます。
 ただし、これらの中には、現4丁目北東の三叉路のところ(黄矢印)とか、長命地蔵(緑矢印)のところに集約された
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm
ものも多いかと思われますので、この地図上の石碑の中に富士講碑があったかどうかは、地元の伝承にたよるほかないかと。

Re: 富士講 - きむらたかし@三田用水

2016/04/19 (Tue) 08:58:03

〔「ふるさと世田谷を語る 代田etc」編の…〕
pp.63-64 によると
代田では、三峰講、御嶽講、大師講、代永講は、村ないし集落単位だったようですが、富士講、木曽御嶽講、大山講、伊勢講、日待講は個人参加とのことです。

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/19 (Tue) 21:31:34

こちらが環七ピーコック近くのだと思います。いま見ると丸平講でした。池ノ上と同じグループですかね。さらに、扶桑教の先導師さんの様です。裏に何が書かれているのでしょうか。

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/19 (Tue) 22:27:29

しかし、富士吉田の北口浅間神社から富士山に向かう出発口の場所、いわば一等地に何故建てることが出来たのでしょうね? この場所の石碑は明治35年に建てられて、池ノ上のは大正9年とのこと(せたがやグラフ36号の記事より)です。少なくともこの19年間は講の結束と資金繰りをやり抜いたのですね。
写真右奥に石碑が建っています。

破壊された森巌寺の富士塚 - きむらたかし@三田用水

2016/04/20 (Wed) 00:47:13

世田谷郷土資料館「『特別展 社寺参詣と代参講』図録」(同館・平成4年・刊)p.39によれば
「文政四年(一八二一)に、三軒茶屋山吉講の新兵衛が願主となってなって淡島森願寺の境内に富士塚を造立している。この富士塚はもともと同寺にあった鍋島山と呼ばれる築山に盛土して築き上げたもので、見苦しくない様、その手入れ方を山吉講中が下北沢村名主・半蔵に約している。」
とあります。

三軒茶屋あたりは太子堂村であるのに対し、環7(略・堀の内道)と世田谷通り(略・旧大山道)の交点南東は上馬引村のようで、個人参加といっても、各講ごとに、石碑を建てたりさらには富士塚を造作したりといった動員力を発揮できるような、それなりのテリトリーがあったようです。
ことに、上馬引澤村でも下北澤村でも石碑を建立した丸平講なる講中には、今後ともアンテナを張っておく必要がありそうです。

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/20 (Wed) 08:34:49

せたがやグラフ36号の記事の写真とキャプションです。
この石碑を池ノ上の石碑と言いましたが、〝池ノ上の〟か〝東北沢の〟か〝下北沢の〟か〝世田谷北澤の〟かどれがコミュニケーション上はいいでしょうね?

文献粗読み - きむらたかし@三田用水

2016/04/21 (Thu) 10:46:53

世田谷区民俗調査団「下北沢-世田谷区民俗調査第8次報告-」世田谷区教育委員会/1988・刊
佐藤敏夫「下北沢通史」同/1986・刊

を引っ張り出してみましたが、どちらにも富士講についてのめぼしい記述はありませんでした。

あるいは
世田谷区総務部文化課「ふるさと世田谷を語る-池尻・三宿・太子堂・若林・三軒茶屋-」同/1994・刊
同「ふるさと世田谷を語る-上馬・下馬・野沢・三軒茶屋・駒沢(1-2丁目)-」同/同・刊

あたりには、何か書かれているかもしれません。
が、前者は代田にあるものの、梅が丘にはどちらもないのが辛いところです。

富士講リスト - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/23 (Sat) 22:44:36

〔google booksにある…〕

井野辺茂雄「富士の信仰」(富士の研究第3巻)浅間神社社務所/昭和3年・刊

https://books.google.co.jp/books?id=murHqMaXDJ0C

のpp.175~(書籍のページ番号による)に、著名な富士講のリストがあるのですが…

「五十回碑」の「丸平講」、森厳寺の富士塚を築造した「山吉講」はリストアップされていません。
その他、なじみのある講名としては、目切坂上の目黒元富士(西富士)を築いたといわれる「丸旦講」はありましたが、べ別所坂上の目黒新富士(東富士)の築造に関与したらしい「山正広講」もリスト中にありませんでした。

なお、同じく google books 中
神奈川大学日本常民文化研究所「富士講と富士塚」平凡社/1993・刊
https://books.google.co.jp/books?id=lKYJAQAAMAAJ

によれば
「山吉講は、渋谷道玄坂の吉田平左衛門という食行身禄の直弟子が?袓、同じ講紋の講社は昭和八年で、渋谷,玉川,三軒茶屋,下谷,寺島,砂町と七講あった」
とされています。
どうやら、渋谷の109裏、台湾料理の「麗郷」前の通りの名前「御水横町」の由来となった講のようですね。

富士講文献 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/23 (Sat) 23:59:13

〔「困ったときのcinii」で…〕
あたってみたら、こんな

青柳 周一「富士講と交通 : 江戸の富士講を題材に」
交通史研究 (33), 10-27, 1994-05-20
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0010541419

論文がありました。

興味深いのは

江戸幕府はたびたび富士講について禁令を出したが
「そのほとんどが江戸内部での富士講の活動を禁じるものではあっても、富士参詣そのものについて言及するものがな」く

かえって、「一八〇五(文化二)年に出された触」は「街道筋の旅籠や商人の生計を保障するため、富士・大山参詣者の海上往来を禁じて、街道を通行するよう指示したものだが、この触の物語ることのひとつは、こうした参詣者が街道筋に居住する人々の生計を左右するほどの数となってい」て、

とりわけ「元来、富士参詣者のほかにも馬による交通労働や畑地からの農作物の収益に生計を頼っていた須走村も、一七〇七(宝永四)年の富士山噴火によって畑地・秣場が荒廃するに致り、生計を富士参詣者を対象とする諸業務に、ますます依存する度合いを深めざるを得なくなった」

つまり、幕府も「富士参詣者中に富士講の占めていたであろう割合の高さを考えると、江戸内部では富士講の活動を禁じつつも、一方で街道筋の商人達の生計保障のため、その存在と参詣を認めざるを得ない、というジレンマに落ち入ってい」た

との指摘です。

こういう事態になっていたのは、この文献によれば、江戸時代は「お行儀の悪い」富士講が多々あったせいで、引用の一七九五(寛政七)年正月の町触には、

「    町触
町中にて職人日雇取、軽商人等講仲間を立、修験之袈裟をかけ、錫杖を振、唱事申連、家々之門二立、奉加ヲ乞、又は病人等之祈念を被頼、寄集、焚上と申、藁を焚、大造ニ経を読、俗ニて山伏躰ニ粉敷儀致候由、并大造成梵天を拵、大勢にて町々を持歩行、家々門々之幣を挿し、初穂を乞、中ニは少し遣候得は及口論候旨相聞、
甚不埓之至候間、早々相止可申候、且又神事抔ニ事寄、店々より為致出銭、少々出候得は仇いたし儀、間々有之由相聞候、向後右躰之儀堅致間敷候、若於相背は、吟味之上急度可申付候、此旨町中不残可触知者也、

右之通、安永四未年五月中相触候處、近年富士講と号、奉納物建立を申立、俗二て行衣を着、鈴最多角之珠数を持、家々之門二立、祭文を唱、或は護符守等出し、其外前書同様之儀致候もの有之趣相聞、不埓之至二候、以来右躰之儀堅致間敷候、若於相背は召捕、吟味之上急度可申付候、此旨町中可触知者也、
   卯正月」

とあって、結構笑えます。

また、慶長18年(1613年)の修験法度によって、真言宗系の当山派か天台宗系の本山派に帰属していた
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/01/post-a1bc.html
「加持祈祷」の本家ともいえる修験者からも
「講外之族迄祈祷相頼、修験永檀之者も富士講ニ相傾、修験帰依薄く罷成、職業日営取成行可申<ヨリ>迷惑仕候」
「畢竟法者<ヨリ>俗人<ヨリ>差別難相分、混乱之次第」
とのクレームが幕府に寄せられていたようです。

【追記】
御一新の御代になっても、似たような困った人たちがいたようですね
http://www.archives.metro.tokyo.jp/detail.do?smode=1&tsNo=1&id=659161&lbc=-1

「富士講其外種々之講銘を唱候者 其講之目標に日章旗号を持歩行候者有之哉に相聞候 件不宜之儀庶務本課より御沙汰に付 当番世話掛より達」(適宜スペース挿入:引用者)

【追々記】
上記の「町触」。
厳密に読むと「富士講」という「結社」を禁止しているわけではなく、その振舞い、主として
・俗人のくせに法者、つまり公許の宗教家もどきの衣装を着けたり行いをする
・宗教的行事に「事寄」せて、町場で寄付を事実上強要する
ことなどを禁止しているだけで「お行儀よく」していれば「召捕、吟味之上急度…申付」けられことはなかったことになります。
まぁ、ご法度中のご法度の切支丹ですら、江戸時代の中頃からは、大っぴらに活動しない限り「見て見ぬふり」をしていた、との見方もあるようですし。

【追々々記】
 ネット上のいろいろな方々の見解を読んでみると、上記の町触末尾の
「以来右躰之儀堅致間敷候、若於相背は召捕、吟味之上急度可申付候」
について、不正確な解釈をされている方が多いようで、「法律家の端くれ」としては「捨て置けない」のであえてコメントしておきます。
 明治以降の日本もそうですが、いわゆる近代国家といえるための必須の条件の一つは「罪刑法定主義」。つまり、
・どのような行為をすると犯罪となるのか(罪)
・その場合どのような処罰を受けるのか(刑)
のルールが、あらかじめ明確に(通常は「法律」の形で)公表されていなければならないのです。
 しかし、江戸時代の日本は少なくとも近代国家ではなかったので、当初は「罪」も「刑」も公表しないのが原則でした(もっとも、毎回判断がブレてはかえって「公儀」の威信が崩れるので、公儀の内部では「原則として前例に従う」というルールがあったようですが、その「暗黙のルール」は当然ながら公表されていませんでした)。
 しかし、大体、享保期あたりのようなのですが「罪」つまり「何が犯罪なのか」は、民に知らしめておいた方がよい、という考え方が主流となったようです(しかし、「刑」については、例えば「これをしてもせいぜい江戸払いか」とわかってしまうと、かえって犯罪を助長するのではないか、との懸念から公表しない方がよい、という見解が主流だったようです)。
 つまり
「以来右躰之儀堅致間敷候、若於相背は召捕、吟味之上急度可申付候」
の文意は
「右躰之儀」は犯罪であり
どのような刑罰かは公表しないけれども、「急度」(きっと=必ず)何らかの刑罰には「可申付」(もうしつくるべく=処するぞ)
ということなのです。
 平たくいえば
「急度可申付候」→「急度〇〇可申付候」(「〇〇」はいわゆる伏字)
なわけです。

富士講講紋 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/24 (Sun) 08:55:11

〔富士塚探索で有名な…〕

有坂蓉子さんのブログ「芙蓉庵」に、俗称「百八講印曼荼羅」、正式には「紙本着色冨士講惣印図」の画像がありました
http://hibiscusfujizzz.blog.shinobi.jp/Entry/933/
クリックすると拡大画像
http://file.hibiscusfujizzz.blog.shinobi.jp/marks.jpg
を見ることができます。

山吉講、丸旦講のはありますが、丸平講のはみあたらず。

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/24 (Sun) 20:56:47

北口浅間神社と池ノ上の2つの石碑に刻まれている表裏の人名などを、米澤さんが読み取って下さいました。
ありがとうございます。


北口本宮富士浅間神社 吉田口登山道起点登山門脇
■表面 登山三十三度報賽 明治三十五年六月一日建之 東京府下北澤

先達 安野梅五郎

■裏面

世話人
若林

根岸弥三郎

下北澤

鈴木金太郎 月村作太郎

安野貞四郎 鈴木鶴太郎

代田
齊田孝吉
幡ヶ谷
横川(粟?)太郎 長谷川作太郎
並木仙太郎

雑色

佐久間謙


池ノ上(北沢 1-45)
■表面 補少講義四代目先達鈴木金太郎 冨(○平)登山五十度 講社中
■裏面 大正九庚申年七月吉日
□幡ヶ谷世話人
大野長松 長谷川作太郎 田中豊次郎
荒川金太郎 横川健次郎 伊東八五郎
横川伊三郎 渡邊金佐久 秋元源太郎
小泉直次郎
□雑色世話人
佐久間謙吉 柳田辰五郎 田中重蔵
□代田世話人
齊田清吉 吉澤重太郎 少教正 廣田岩吉
篠田鈴之助 齊田金五郎 清水平次
飯田佐太郎 齊田藤三郎
□下北澤世話人
斎藤岩治郎 安野庄太郎 安野貞四朗
月村浅次郎 月村源太郎 小杉興五郎
岸田力蔵 安野久之助 安野芳兵衛
田中傳五郎 鈴木虎吉 安野長三
榎本峰吉 飯田勘太郎 野口平次郎
阿川金三郎 朝倉富蔵 小坂興吉
訓導 石渡鉄五郎 田中幸太郎
幡ヶ谷石熊刻

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/24 (Sun) 21:17:25

環七ピーコック近くの石碑を見に行きましたが、下北澤や代田の方は見られませんでした。
さらに、明大前近くの扶桑教境内にあるたくさんの石碑も見に行きましたが、それらの中でも同様に見られませんでした。また、丸平講の石碑もありませんでした。
残念でした。

山吉講 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/24 (Sun) 21:57:13

[今日「カメラ散歩」で…]

北沢5丁目方面に「出撃」したついでに、渋谷区の西原図書館で、御水横町の山吉講の枝講が載っているとされている
「渋谷区史料第二『吉田家文書』」
https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/asp/WwShousaiKen.aspx?FCode=1297772
を見てきました。

内容は、いわば、山吉講主催の富士詣の「携行者リスト」で、講名の記載はないものの、講印が画像で掲載されているのですが、その中に丸平講の講印はありませんでした。

吉田口登山道起点石碑 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/25 (Mon) 11:07:30

代田の「横川」さんは、「眞太郎」
雑色の「佐久間」さんは、「常吉」
ではないかと…。

それにしても、雑色の人が加わっているというのは…
http://otaku.edo-jidai.com/40.html
やはりこれも品川道つながりか?


冨(○平)登山五十度碑 - きむらたかし@三田用水

2016/04/26 (Tue) 00:43:50

解読結果校正


幡ヶ谷世話人
横川健次郎->横川兼次郎

雑色世話人
佐久間謙吉->佐久間兼吉

下北澤世話人
安野貞四朗->安野貞四郎

でしょう。

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/26 (Tue) 06:39:23

明大前近くの扶桑教境内に丸平講の石碑はありませんでしたが、石碑の写真は、先にきむらたかしさんが取り上げていた有坂蓉子さんのブログ「1393【 東京の富士塚がひとつ増えます! 】」にありました。
http://hibiscusfujizzz.blog.shinobi.jp/Entry/1394/
写真は扶桑教にかかっていた垂れ幕です。

Re: 富士講 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/27 (Wed) 17:50:43

〔野口建さんが…〕

造営委員長となると、とくに親しみが持てます。

昨年1月、野口さんの講演
http://www.mokutaikyo.com/zenkoku/index_2015.htm
を聴く機会があったのですが、主催者側関係者との人脈がらみで引き受けられた講演とのことで、結構「ざっくばらん」なお話を聞くことができました。

富士山のクリーンアップにも言及されていましたが、野口さんといえば、なんといってもエベレスト。

わかったことは、エベレストについては、「登頂成功談」なんかより、「登頂失敗談」次いで「登頂断念談」の方が、はるかに「面白くて、為になる」ことでした。

生命維持ぎりぎりの場所での、情報分析と、それに基づく判断のお話、しかも、その判断の結果、今でも「生き残っている」方のお話なのですから、ある意味、登頂談以上の成功談なのですよね、これ。

Re: 富士講 - 藤井

2016/04/28 (Thu) 08:15:18

きむらたかしさん、登頂より生還の判断というお話、その通りと思います。価値ありますね。
この投稿の一番始めの「お改め」は、価値判断を迷わせるものが富士山にはあったということですね。

Re: 富士講 - 米澤邦頼

2016/04/30 (Sat) 07:07:28

北口本宮の石碑裏面の
『月村作太郎』、Tさんのお祖父さんとの事です。

仮称:丸平講 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/30 (Sat) 09:40:24

〔ここ〕
https://twitter.com/64sai/status/362465318548930560
を、みると、富士講に相当造詣が深そうな人でも
「わからん」
ということのようです。

ここは、Tさんにお家の古文書を発掘していただかなくては…

Re: 富士講碑@雑色 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/04/30 (Sat) 11:57:47

〔安養寺というお寺〕

http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/rokugou_haginaka/anyouji_fujikouhi.html

の、富士講碑の100近い講印

http://pbs.twimg.com/media/BzA9VNXCcAAmfgG.jpg

中にも丸平はなさそうですね。

「富士をめざした安房の人たち」 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/05/03 (Tue) 09:17:16

〔東京湾を隔てた…〕
房総半島の先端の館山フィールド・ミュージアムの表題のページ。
http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0012&strID_Page=000&strID_Section=01

同地の富士信仰や富士詣の歴史をまとめたページですが、大変よくできています。

 目次抜粋

【1】安房から見た富士のすがた
【2】富士山の南と北 -富士への信仰の歴史- 
 1.富士山の登山口
  村山口 (静岡県富士宮市)
  大宮口 (静岡県富士宮市)
  吉田口 (山梨県富士吉田市)
 2.富士の教えとその広まり
  御身抜{おみぬき}
  江戸八百八講の大流行
【3】安房から富士山へ -記録のなかの富士参り-
 1.富士山登山口に残る記録
 2.安房からの富士参り道中
  登山口に残された安房からの参詣者の記録
【4】大願成就の大先達たち  
 1.先達{せんだつ}とは何をする人か
  修行
  呪術
  お焚き上げ
  先達のすがた
  記念碑を残した安房の主な先達
 2.大先達・栄行真山
  安房国浅間宮八百番
  〔安房国浅間宮八百番〕
【5】安房のなかの富士山 -センゲンサマと富士講-  
 1.安房に広まった富士講
  山三{やまさん}講
  山水{やまみず}講
  山包{やまつつみ}講
 2.センゲンサマは地域の富士山
  〔富士山の山開きにちなんだ主な行事〕

 かつて、館山には3年間ほど仕事で通いましたが、往復の内房線の車窓から、天候次第ではありますが、直線距離で100キロ向こうの富士山がきれいにみえました。

富士講関係論文 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/05/03 (Tue) 10:07:04

〔cinii で…〕

あらあら当たってみました(ただし、内容が比較的「俗っぽい」ものを中心に)。

谷釜尋徳「近世後期における江戸庶民の旅の費用」
http://ci.nii.ac.jp/els/110008582875.pdf?id=ART0009713303&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1462236128&cp=

「講組織によって旅費の多くが賄われたが、旅立ちに際しては有縁の人々から「饒別」を貰い受けるという慣習もあった。こうした講組織や饒別の存在は、庶民の旅にかかる負担を経済的な側面から軽減したという意味で、庶民を担い手とする旅の発展にとり看過できない要因であった。」

伊藤太一「江戸時代の富士山における登山道・登山者管理と登山者による費用負担」
http://ci.nii.ac.jp/els/110007226143.pdf?id=ART0009161372&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1462236394&cp=
「御師は早い峙期から「檀廻り」を行っていたがその対象は富士講の講員であった。物見遊山の登山者が増えると,登山集落間での客引きも活発化した。表口では東海道から直接村山に向かう者が多かったので,大宮経由を義務づける代官による制札が16〜18世紀にわたって繰り返し出された。これに対して村山は,吉原からの道標を、立てたりちらしを配ったりした。さらに, 蒲原においては草鞋無料提供切手を渡して集客に努めていた(裾野市史編さん専門委員会,2000)。須走と須山の問でも客引きが登山者を奪い合ったが1797年にそれぞれの客引きを自粛する協定を結んだ。」

大谷正幸「富士信仰から角行系宗教へ」
http://ci.nii.ac.jp/els/110002826581.pdf?id=ART0003211471&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1462236816&cp=

住谷 雄幸「江戸時代の山岳紀行 : 三山(富士山・白山・立山)紀行を中心に(第2部)」
http://ci.nii.ac.jp/els/110000990332.pdf?id=ART0001168993&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1462237177&cp=

青柳周一「富士講と交通」
http://ci.nii.ac.jp/els/110009985724.pdf?id=ART0010541419&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1462237322&cp=
〔既出〕

中島義一「富士塚の諸相」
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/29520/
〔駒澤大サイト〕

Re: 富士講 大谷正幸 URL

2016/05/05 (Thu) 20:56:44

はじめまして。大谷正幸と申します。

富士信仰の研究者ですが、「富士講に相当造詣が深そうな人」なのかは微妙です。

たまたまネットを巡回していてこちらにたどり着いたのですが、山冨講の丸平という枝講はだいぶ新しい(明治中頃から?)講のように思われます。実際、江戸時代の講紋曼荼羅や文書の類には見られません。明治十年代半ばと考えられる安養寺の碑に見られないところをみると、明治初期でもないのではないかと。

ところで、ふじさんミュージアム(富士吉田市歴史民俗博物館)に、砧村喜多見の山冨丸平講(とりあえずこう呼びます)によるマネキがあります。丸平という枝講名が何に由来するか(地名あるいは人名など)、現段階ではわかりませんが、北沢地域だけのものではなかったようです。

最後に「俗っぽい」富士講の本でしたら拙著『角行系富士信仰』(岩田書院、2011)がお勧めです。俗っぽすぎて(苦笑)評価されていないくらいでして。

Re: 富士講 - 藤井

2016/05/06 (Fri) 07:39:06

きむらたかしさん、房総半島の金谷の鋸山にある日本寺の千五百羅漢さんの中に偶然にもヤマミズ講の石碑を見かけました。当日は残念ながら半島から富士山は見えませんでしたが、石碑を見て富士山に近いのだと実感しました。

Re: 富士講 - 藤井

2016/05/06 (Fri) 07:44:38

大谷さん、丸平講の情報をありがとうございます。富士吉田のふじさんミュージアムの資料を今度見に行きたいものです。(周囲の散策はしたのですが…

あっ、そうか!! - きむらたかし@三田用水

2016/05/06 (Fri) 08:54:46

〔オーソリティーの…〕

ご参入と、ご教示、心強いです。ありがとうございます。

なるほど確かに
「山冨講(の枝講の)〔丸〕平講」
と解釈できますね。ということは山冨講を探ってゆけば、何か出てくるかも。

喜多見は「まねき」にもあるとおり北多摩郡、一方、下北澤、上馬引澤両村は荏原郡で、物理的にみてもかなりの距離があって、このあたりのローカルな講と思いきや、意外に分布が広いのですね。

 追って、旧・下北沢村の富士講碑。裏面右端下に刻まれた建立年は
「大正九庚申年七月吉日」
とあり、年一度の富士詣とすれば
1920-(50-1)=1871年≒明治4年
となり、富士吉田の「三三度=明治35年」ともほぼ整合します。
(写真は、2016/04/24撮影。濃度・コントラスト・レベルを調整)

Re: 富士講 大谷正幸 URL

2016/05/06 (Fri) 20:38:56

こんにちは。

まず誤解をいくつか解いておきたいのですが、富士信仰では講のリーダーを「先達」とは言うのですが、「先導師」という呼び方はしません。「先導師」というと、大山信仰で明治に現地の御師が呼び換えた自称を思い浮かべてしまいますので、使わないでいただければ幸いです。

それと、北口本宮(富士吉田市の行かれた浅間神社)にある石碑は「安野梅五郎さんの登山33回記念」で、旧・下北沢村の富士講碑は「鈴木金太郎さんの登山50回記念」です。もうこの時期になりますと交通が発達していますので、一年に複数回行くのもそう難しいことではないのですね。

今ここで上がっている話を基に考えますと、(三代目)安野梅五郎―(四代目)鈴木金太郎という系譜ができます。ピーコック裏手にある碑の「根行政山」さんはその行名と他の石碑の名前から考えるに、「根岸弥三郎さんの縁者で政の字を持つ人」ではないかなーと想像できます。それがわかればこの根行さんを安野さんの前とするか、鈴木さんの後とするか、見当がつくでしょう。

根本的な問題として「丸平」の「平」とは何かということがあります。要するに地名か人名ではないかと考えているわけですが、世田谷の周りに「平」という地名があるのか、無ければその枝講を始めた人の名前の一部ではないかと考えている次第です。

〔平〕 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/05/06 (Fri) 22:04:28

〔貴重な知見…〕
ありがとうございます。

何しろこのあたりは、北に位置する「代々木九十九谷」にはかないませんが「七沢八八幡」
http://blog.livedoor.jp/beckykusamakura/archives/40082107.html
と呼ばれた「沢だらけ」の地域でもあり、
下北澤村をはじめ、西の代田村、南の池尻(池澤)、三宿、太子堂あたりの各村には「平」の付く地名はなさそうです。
 また「平」という地名は、台地や高地の上部の平らな場所に多いことからみて、もともとが多摩川の氾濫原が大半を占める喜多見方面にもなさそうに思います。

 ただ、件の「馬引沢村」(上中下に分村後は「下馬引沢村」)には「平川」という小名が、新編武蔵風土記稿に記載されているのですが
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982 41コマ目)、三軒茶屋、子の神丸と違って単に地名がリストアップされているだけでしたので、国会図書館にある
「新区町名地番表」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1270227 104コマ目>を見ると
旧駒澤町下馬(←下馬引澤村 →下馬1丁目)96~242番地
とのこと。
 現在の、下馬1丁目の略南半分、蛇崩川の左(北)岸の地域のようで、環七と世田谷通りの交差点からはかなり離れています。

取り急ぎ

〔平〕追伸 - きむらたかし@三田用水

2016/05/06 (Fri) 22:43:12

〔ふと思い出して…〕
世田谷区教育委員会「世田谷旧村古地名集」同/1983・刊
を引っ張り出して、旧・喜多見村の古地名のリスト(同pp.54~65)をチェックしましたが、「平」「ヒラ」「タイラ」を含む地名はみつかりませんでした。

Re: 富士講 - 米澤邦頼

2016/05/07 (Sat) 01:26:20

ネットで見つけました。(http://www.fujiyoshida.net/
二十三(?)夜講 四代先達『鈴木金太郎』の名が。
同一人物ですかね。
吉田口の中の茶屋に飾ってあるみたいです。

十三夜講 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/05/07 (Sat) 02:13:25

〔本拠中の本拠…〕
浅間神社のWebページ
http://www.sengenjinja.jp/fujikou/index.html
の「現在も活動している富士講」というリスト中に「山真 十三夜神明講」というのが確かにありますし、千葉市中央区寒川
の海津見(わたつみ)神社には、山真講の講印の富士講碑もあるようです
http://blogs.yahoo.co.jp/nobuhiro_suzu/39364757.html
ただし、碑文の「四代目先達」は「布施又四郎(の命)」、十五代先達でも、かなり年代モノのこの碑ですでに「命〔ミコト〕」になってしまっていますので、この系譜の講だとすると鈴木金太郎さんは二十四代なのでしょうか?

もっとも、
http://www.fujiyoshida.net/spot/141
の写真左端の「まねき」の「山吉 丸す御水講」も現役みたいですので、これらの講は、どれも現役で、したがって、鈴木金太郎さんも現役の先達じゃないかと…

Re: 富士講 大谷正幸 URL

2016/05/07 (Sat) 06:53:17

こんにちは。

その鈴木金太郎さんは別人でしょう。石碑の方は下北沢、マネキの方は千葉市の人ですから。ありふれた名前だけに、そこにとらわれるのはよくないと思います。

それとそのマネキ、相当古びているように見えます。茶色い字は白抜きだったはずです。中の茶屋は昭和63年に開けなくなって、再び開けるようになったのはつい最近です。いいところ昭和、おそらく戦前のものではないかな。

それと、丸平の「平」は人名なのではないかという気がしてきました。ただし、証拠はまだ無いという段階です。

諸々情報追加 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/05/07 (Sat) 09:59:44

〔千葉市寒川町が…〕
1~3丁目に分かれるのは、昭和50年前後のようです。

ついでというのも変ですが
 喜多見村が周辺他村と合併して砧村になったのは明治22年
 東京府砧村となったのは明治26年
 東京市世田谷区への編入は昭和11年
 の由。

 ところで、富士講碑の「○○度」というのは、いわば「個人タイトル」で「講」のタイトルではなかったのですね。

 中には「八十八度」さらには「百八度」なんてものすごいのもあり、
http://movie.geocities.jp/toyoura_denske/custom3.html
年1回の参詣では追いつきませんね、たしかに。

旧・下北澤村の富士講史料 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/05/07 (Sat) 12:50:13

〔これまで…〕
すっとばしてしまっていた民俗史料を。

・旧下北沢村の富士講碑/富士参詣について

佐藤敏夫「下北沢通史」同/昭和61年・刊

p.133 安野敬一氏(大正4年生まれ)昭和60年7月・談
「(8)石塔・古寺など
 当家のすぐ近くにある庚申塔。富士講碑などは私ら地元の者で管理している。建っている位置は大体ののままで*、唯、富士講碑は南側にマンションが建ったとき少し北に移動した。」
 *〔引用者註〕ただし、庚申塔というか延命地蔵は当初の位置から少し南に移動している。http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm

p.127 阿川昌朝氏(明治42年生まれ)昭和60年5月・談
「(6)信仰・講
   :
 富士講は先達になって行ったことがある。七月に笠をかぶり、杖を持ち、呪文の字を書いた白装束で出かけた。同行二〇人位だっただろうか。コースは大山・御殿場への道であった。父の代には三百人位で行ったこともあるらしい。女も加わった。」

・下山谷の鈴木家

世田谷区民俗調査団「下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」同区教育委員会/昭和63年・刊

p.4 「明治期下北沢略図」(月村福一氏作成図をインキングしたものの由)
 富士講碑のある下山谷付近を抜粋して引用するが(右が略北)、安野(やすの)家に囲まれた位置に鈴木家がある。

世田谷区内富士講分布 - きむらたかし@三田用水

2016/05/07 (Sat) 16:15:10

〔考えているだけでは…〕
仕方ないので、代田の図書館で
世田谷区立郷土資料館「『特別展 社寺参詣と代参講』図録」平成4年10・11月
を借りてきました。

そのp.34によると

世田谷では

・奥沢村・三軒茶屋*・太子堂村・等々力村・野良田村・上野毛村・尾山村・世田谷元宿・世田谷上宿・深沢村・新町村・用賀村の講中が渋谷宮益坂・山吉講の枝講
・下北沢村・世田谷村・若林村・代田村の講中が山冨講の枝講
・松原村・羽根木・代田大原の講中が一山講の枝講**

〔引用者註〕
*三軒茶屋の大山道から南は上馬引沢村のようです
**こちらは甲州道中南の東西につながった範囲なので、地域的なつながりとして納得がゆきます

にそれぞれ属していた由。

画像は、同ページに掲載されている若林村の「富士講掛金帳」の表紙と本文。見事に丸平です。

富士参詣スケジュール - きむらたかし@三田用水

2016/05/08 (Sun) 11:39:14

〔前掲の…〕
世田谷区立郷土資料館「『特別展 社寺参詣と代参講』図録」平成4年10・11月
pp.35~37を要約すると

明治初めの世田谷・若林村の記録によれば冨士参詣には通常8日程度を要し、

1日目
-上町の万屋(「同行堅メ」と呼ばれる共同飲食をして結団)
-滝坂道-甲州街道
-国領 ・府中 ・立川(各休息)
-日野(多摩川を渡り、休息)
-八王子(泊)

2日目
-駒木野の関所-高尾山(参詣)
-尾根伝いに小仏峠-甲州街道
-上野原-鶴川-野田尻-犬目
-鳥沢(泊)

3日目
-大月-谷村
-冨士吉田(御師 ・佐藤出羽守の宿坊泊)

4日目
-「御胎内巡り」
-馬返-三合目(休息)
-八合目石室(泊)

5日目
六合目「御中道」巡り
山頂「御鉢」巡り
-八合目石室(泊)

6日目
-須走
-御師の坊(昼食)
-小林村(きやり地蔵参詣)
-竹下-矢倉沢-関本
-町屋(泊)

7日
-曲松
-大山(参詣)
-厚木(泊)

8日目
-長津田-荏田
-二子の渡し(多摩川を渡る)
-世田谷上宿(万年屋と蕎麦屋で旅装を解く-ハバキヌギ-)
-帰宅

路銀1人あたり 2両+銭460文
他に共通経費として、馬方2名の給金4両、まき銭300文、接摩代200文

とのこと。

Re: 富士講 - 藤井

2016/05/08 (Sun) 11:42:15































環七ピーコック近くの石碑を再確認しに、米澤さんと共に、行ってみました。
壁と石碑の隙間にスマホを入れてカメラであれこれ確認しか結果、この石碑は根岸弥三郎さんが明治21年に建てたものです。根岸さんはこの辺りに多い地主さんのお名前です。ご近所の方に偶然お話を聞けたのですが、この石碑がある場所も根岸さんの土地で、環七が通る時にこの場所に移されたそうです。
根岸弥三郎さんは北口浅間神社の石碑の裏面にあるお名前と同じです。
これで3つの石碑が次のようにつながりましたね。
北口浅間神社⇄環七ピーコック近く…根岸弥三郎さん
北口浅間神社⇄池ノ上…鈴木金太郎さん
池ノ上⇄環七ピーコック近く…丸平

Re: 富士講 大谷正幸 URL

2016/05/08 (Sun) 12:15:48

こんにちは。

『社寺参詣と代参講』を見ました。この丸平講の帳面は明治六年となっていますので、その頃には講があったということで、私の認識を改めなければならないようです。ありがとうございます。石造物やマネキといった文字資料ではないものからの憶測も時には危険という教訓になりました。

この帳面の所有者は巻末のリストから「根岸武守氏寄託」ということで、この根岸さんというのがくだんの根岸姓の方々の末裔なのでしょう。

ところで、この図録にある(上で挙げてくださっている)スケジュールと金額については、ほんとかなというところがいくつかあります。「同行堅メ」と「ハバキヌギ」については、この文を書いている人が民俗語彙を使って解説しているものであって、史料の方にはそうは書いてないのではないかなと。要するに単に集合・解散の場所をここにしているだけじゃないのかなということですね。

それと、路銀についてですが、この金額はちょっとかかりすぎなのではないかという気がします。さらに馬方代やまき銭は今でいうところの経費ですし、さらに按摩は登山に関係ない私費と考えられます。何が言いたいかというと先達の費用とヒラ講員の費用は同じに考えられないはずで、ここにあがっている数字はお金がかかる先達の場合だけでしかないのではないかなということです。

なお、太平山の二百度記念の碑についてですが、行った当時の写真が確認できなかったので削除しました。

Re: 富士講 - 藤井

2016/05/08 (Sun) 17:17:50































ピーコック近くの石碑の表裏を拾い出したらこんな感じでした。
世や蔵の字は現代の字体です。ご容赦ください。

Re: 富士講 - きむらたかし@三田用水

2016/05/08 (Sun) 19:13:28

〔仮称:(上)馬引澤村〔訂正:元若林村〕富士講碑探査…〕
お疲れさまでした。

ところで、
「萩原 忠蔵
 同  初太郎」
の部分ですけど、この「同」の部分。
 碑文自体に「同」と刻んであったのでしょうか
 あるいは「萩原」とあるのを「同」と省略標記されているのでしょうか?

 リストの同様の部分も含め、どちらかによって、標記上は同姓にしても、お二人あるいはお三人の関係(家系)の評価が違ってくる可能性がありますので。

 それはさておき、今度は三宿村ですか…やれやれ

Re: 富士講 大谷正幸 URL

2016/05/08 (Sun) 21:21:58

こんにちは。

調査お疲れ様です。

根山さんが「根岸弥三郎さんの縁者」だという点はあたっていたようです。「政」字を持っている人なんではないかなという点も当たってるといいのですが。

それで、くだんの碑が明治21年ということで(二代目)根山政行(根岸某)―(三代目)安野梅五郎―(四代目)鈴木金太郎という系譜ができそうです。もしかすると根山さんが初代で、根山―安野か安野-鈴木間に一人いる可能性もありますが、今のところ、このスレの情報から

1、根山-安野-鈴木の順に先達が推移している。
2、4代目が鈴木金太郎

の二点は確定しています。

で、次に、『社寺参詣と代参講』にある根岸家寄託の文書『冨士講掛金帳』(明治6年)と『冨士同行日〆帳』(明治5年と6年の二冊)の筆者が根山さんなのか否かが問題になります。もし、根山さん本人ではなく、根山さんの縁者(可能性が高いのは父親)が筆者だったとすれば、初代がその人で根山さんは二代目ということになります。

Re: 富士講 - 藤井

2016/05/08 (Sun) 22:06:37

きむらたかしさん、石碑の同の件ですが、同なんです。
石工の方も生産性に苦労されてたのでしょうね。
それとも、画数で代金が決まるとかで、発注側の都合とか(笑)

ピーコック裏富士講碑の所在地 - きむらたかし@三田用水

2016/05/09 (Mon) 02:02:07

〔現・世田谷通り…〕
大山道旧道の南にあるので、上馬引澤村だとばかり思い込んでいたのですが、碑の建立者が「根岸」弥三郎で、件の若林村の2通の富士講文書が「根岸」家蔵ということなので、改めて調べてみました。

 世田谷区郷土資料館の「世田谷の土地」展で展示されていた明治4年の「分間一分十間組合村縮図 武蔵国荏原郡第五区」図によると、旧堀之内道(略・現・環状7号線)のあたりでは、若林村の村域が大山道旧道(略・現・世田谷通り)の南に少しはみ出しています(上図赤矢印)。

 「世田谷の地名(上)」p.144の第89図をみると、この地域が旧・駒澤村に編入されたのは、同村成立時の明治22年らしいのに対し、富士講碑が建立されたのは、明治21年ですので、その時の若林村の村域にあった可能性が高いようです。

 したがって、碑文の
「當村」というのは「若林村」
「世田谷村」というのは、明治22年に下北沢村・代田村・三宿村などを含めて併合した(仮称)大・世田谷村でなく、旧来の(仮称)小・世田谷村
だということになります。

Ps:現・環7周辺で、若林村が現・世田谷通り南にはみ出していたとすると…
常盤塚
  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/10/setagaya-b2e8.html
  の所在地についても、再検証が必要かもしれません。
 

「同」の意味 - きむらたかし@三田用水

2016/05/10 (Tue) 17:40:13

〔「同」という表記は…〕

その二人なり三人が、同族として自他ともに認めているからでしょう。
旧・下北澤村では「イッケ」と呼ばれる「くくり」で、卑近な例を挙げれば
 「きむら けん
  同   たかし」
という表記は、普通しませんが、
逆に「きむら たかし」とその妻「きんちゃん」こと「きむら けいこ」を併記する場合は
 「きむら たかし
  同   けいこ」
とする表記にしないと「きむら たかし」と「きむら けいこ」が、全くの他人にみえてしまうので、こちらの表記の方が、むしろ原則ともいえますよね。

あららっ! - きむらたかし@三田用水

2016/05/18 (Wed) 17:43:49

〔お間抜けにも…〕
今頃になって気が付いたのですが、このスレッドの
Re: 富士講 - 藤井 @2016/04/18 (Mon) 08:49:02
掲載の写真。

石碑中央の「登山三十三度…」の上に、「田」の字の下半分らしきものが写り込んでいます。

できれば、このあたりから石碑の「てっぺん」までの写真、希望です。

Re: 富士講 - 米澤邦頼

2016/05/19 (Thu) 19:29:56

これです。
『冨』の(田)部分ですかね。

おおっ。 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/05/19 (Thu) 21:21:36

〔やはり…〕

三つ山+冨 の山冨講の講印でしたね。

この講が築いた富士塚が、横浜市青葉区、Dr.別宮がお得意の、大山街道近くにあったようですね。
http://www.ondamemo.net/archives/000037.html

Re: 富士講 - 藤井

2016/10/09 (Sun) 23:21:27

米澤さんとふじさんミュージアムに行ってきました。
充実の富士講空間でした。

Re: 富士講 - 藤井

2016/10/10 (Mon) 08:08:36

今回はふじさんミュージアムでヤマトミ丸平講のことを見つけるのが目的でした。展示物は見切れない・読みきれないほどあってワクワクしましたが、どうもこの中には見当たらないようです。しかし資料室の書籍で見つけました。ヤマトミ丸平講!
富士吉田市資料叢書13「マネキ」のp93にヤマトミ丸平講で鈴木金太郎さんの名前が四代目先達として書かれているマネキを発見。富士山7合目の山小屋にあるようです。このマネキには他にも、北口浅間神社の石碑裏面に世話人として名前の出ている根岸弥三郎さん、長谷川作太郎さんが見られました。さらに池ノ上(東北沢)の石碑裏面に名前の出ている大野長松さん、安野芳兵衛さんの名前もありました。
北口浅間神社の石碑は明治35年、池ノ上(東北沢)の石碑は大正9年で、今回見つけたマネキは明治44年なので、二つの石碑の間を鈴木金太郎さんがしっかりと繋いでくれていました。
とても面白かったです。

Re: 富士講 - 藤井

2016/10/10 (Mon) 08:12:27

ふじさんミュージアムの展望ラウンジからの富士山です。

遠路の調査… - きむらたかし@三田用水 URL

2016/10/10 (Mon) 15:04:36

〔お疲れさまでした〕

今度機会があれば
烏帽子岩講 千駄ヶ谷富士 ?
丸旦講 目黒元(西)富士 本所
山正廣講 目黒新(東)富士 麻布
山吉講 森厳寺富士 三軒茶屋?元講は本所

あたりの、まねきの所在はひとまずおいて、発祥その他の消息を示すデータがないかの、ご調査を希望。

図版は、近藤冨藏〔重蔵の息子で、地境をめぐるトラブルで、図中左端の隣家の一族ら5人を斬って、八丈に遠島になった由〕の、「八丈実記」中「鎗丘実録」から

「富士信仰について書かれた随筆リスト」 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/10/23 (Sun) 00:40:27

〔富士信仰について書かれた随筆リスト〕

http://fjska.sakura.ne.jp/kijilist/index.php?title=%E9%9A%8F%E7%AD%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

全く無関係な江戸時代の史料を探しているとき、偶然出てきました。

「近世以降富士信仰について言及している随筆や名所案内、年中行事の類を列挙したものである(一部例外あり)。ただし、翻刻の無い随筆・『滑稽富士詣』のようなフィクション・紀行類・記述が一定地域にわたって網羅的になっている『新編武蔵風土記稿』のような地誌類は原則として除いた。」

Re: 富士講 - コミ

2016/11/14 (Mon) 23:58:57

門外漢が他所から口出しして恐縮ですが、こんな本が有るのご存知かなと思いまして。もしかしたらご研究の一助になるかもと。吉田口の御師の家から始まり、山頂奥の院までの、富士講奉納物が殆ど約99%奉納者の名前まで調べた文献です。紙マネキかた布マネキ、板まねき、額、石塔すべてと言ってイイほど網羅されています。「マネキ資料図版」としてだけでも約250ページ。全420ページ。

Re: 富士講 - コミ

2016/11/15 (Tue) 00:21:14

本の内容はこんなのですね。

Re: 富士講 - コミ

2016/11/15 (Tue) 07:25:25

こんな図版も掲載されていました。

富士講資料 - きむらたかし@三田用水

2016/11/15 (Tue) 14:16:44

コミ様

ご紹介ありがとうございます。
どんな情念によるのかはわかりませんが、世の中には、ものすごい史料を編む方がおられるのですね。

やはり、ピーコック裏の碑は、かの地が若林村内にあったときに建立されたことにまちがいなさすです。

お差し支えなければ、書誌情報をご教示いただければ、ここのメンバーのみならず、すべての「後進者」にとって、より有益な情報となると思います。

Re: 富士講 - コミ

2016/11/15 (Tue) 14:47:55

東京家政大学教授で民俗学者の、西海賢二先生が平成9年に自費出版なされた「民衆宗教の祈りと姿ーマネキ」という御著書です。先生の実姉が以前私と同じ職場におられたのが縁で、ご著書を入手いたしました。

西海賢二先生 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/11/15 (Tue) 15:00:54

ありがとうございます。

これ

http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA32578423

ですね。
本務校のほかは、身延山大学図書館に所蔵ですか.

読めるようになるまでのハードルが高そうです。

Re: 富士講 - コミ

2016/11/15 (Tue) 15:22:02

2160円で「日本の古本屋」サイトで売っていますけど。

Re: 富士講 - きむらたかし@三田用水

2016/11/15 (Tue) 17:45:20

【日本の古本屋〛

ご指摘のとおりありますね。

1か月前なら、一も二もなくゲットしたのですが、ここのところ、追いかけている他のいくつかのテーマのため、ネットオークションで、いろいろ出てきた史料を落札しまくってしまったので「財源枯渇」。

「…保存の会」のどなたか、FさんとかYさんとか、入手していただけませんか?

PS:先ほどは、某古地図を2000+で入札中だったのですが、落札してしまいましたので、まずます枯渇

Re: 富士講 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/11/15 (Tue) 21:18:48

〔「大正九庚申年七月」の碑文〕

・藤井さんの
2016/04/24 (Sun) 20:56:47

池ノ上の富士講碑の碑文データは

大正九庚申年七月吉日 付け

・コミさんの
2016/11/14 (Mon) 23:58:57

おそらく4合目のどこかの碑文データも

大正九庚申年七月 付け

ですので、まったく同時期。

ただ、碑文にある、多分登山五拾度を達成した、鈴木金太郎さんは

前者では
補・少・講義 

後者では
講義

ですので、字面から素直に評価する限り、「補」も「少」も付いていない後者の肩書の方が、少なくとも2ランク上というのが同時期なのに不思議です。

Re: 富士講 - コミ

2016/11/25 (Fri) 19:06:15

昭和初期の写真ですが、右端の旗マネキの笠印が「山富」のようです。講印は「丸平」では無いようですが。御参考までに。

Re: 富士講 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/11/26 (Sat) 15:29:26

【講印】

何分写真が小さいので、無理無理にではありますが…

山冨-丸玉講

でしょうか?

http://enjoo.com/ayaseinari/otakara/otakara-5.htm

「民衆宗教の祈りの姿」と「マネキ」 大谷正幸 URL

2017/01/21 (Sat) 14:34:40

ご無沙汰しております。

久しぶりに覗いたらお話も進んでいたようで何よりです。

マネキについて二つ本が出ていたので、それについて。

実は両書の中身、特にマネキについて調査した部分は全く同じなのです。なぜなら調べたのも書いたのも同じ西海氏だから。

マネキの調査は富士吉田市が市史を編纂するための資料として行われたものです。報告書つまり『マネキ』を刊行するために西海氏は膨大な量の解説も書いていたのですが、(おそらく予算の都合か、西海氏のお世辞にも上手とはいえない文章が原因で)その掲載を拒否された。そこで憤った西海氏が解説を調査結果と共に自費出版したのが『民衆宗教の祈りの姿』です。

『民衆宗教の祈りの姿』をご本人からいただいた時に口頭で聞いた話ですが、まあ、あの解説の文章なら『マネキ』で十分だと思っています(今も売ってるしカラー図版きれいだし)。

『マネキ』にカラー図版があり『民衆宗教の祈りの姿』にないのは写真の著作権がおそらく市にあるのではないかな。

ところで、私の「富士信仰について書かれた随筆リスト」がお役に立っているようで何よりです。

Re: 富士講 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/01/24 (Tue) 20:21:54

大谷様

史料の解題ありがとうございます。
この
http://www.mfi.or.jp/marubi/hon/hon2.htm
#35ですよね。

「きれいなカラー図版」のために+約¥2000…
なかなか悩ましい。

Re: 富士講 - きむらたかし@三田用水

2017/05/02 (Tue) 12:18:11

【資料映像】

全く別の写真を探しているときに出てきた、
箱根・宮ノ下の富士屋ホテルに展示されていた。

「富士を中心とする鳥瞰図」

Re: 富士講 - 米澤邦頼

2017/05/04 (Thu) 18:59:57

松原のお富士さん平成29年7月9日開山です。

邪宗門 営業時間について - 米澤 邦頼

2017/04/09 (Sun) 17:39:01

邪宗門の営業時間のご案内です。
暫くの間、変則的に変わる可能性がありますので
下記にてご確認ください。

邪宗門 Twitter

https://twitter.com/jashumon_coffee?lang=ja

Re: 邪宗門 営業時間について - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/03 (Wed) 13:28:32

〔今ごろになって…〕

気が付きました。

世田谷文学館で2014年に開催された「下北沢クロニクル」なる展示会。
http://www.setabun.or.jp/document/shimokita_pressrelease.pdf

なんとも、コンセプトのわからない展示会ではありましたが、それはともかく…

パンフレットの「森茉莉の愛用の品々」の写真中に、邪宗門のマッチが…

「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/27 (Thu) 18:04:40

〔「本家」の…〕























下北沢X物語(3266)~下北沢駅の地下道の話を聴く会Ⅱ~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52043862.html

の2枚目の「小田急開業80周年記念特集」とのタイトルの写真集
http://livedoor.blogimg.jp/rail777/imgs/a/8/a883fe09.jpg

その右下の「1965年、駅改良工事中の下北沢」と題する写真には、
同ページでも指摘しているように、地下道の入口のような建屋が写っています。

その写真を取り出して正立させたもの(以下「1965年写真」ということにします)をUPしておきます。

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/27 (Thu) 18:13:03

〔実は…〕

この「1965年写真」、どうやら…

雑誌「鐡道ピクトリアル」812(2008年12月)号 p.114 の
長内 宏「小田急下北沢駅 島式ホーム・地下通路の遺構」

という記事の末尾
「地下自由通路のなごり」という見出しの部分の終わりの段落に

「なお,2007年5月の小田急広報誌に,下北沢駅の紹介記事があり,ここに1965(昭和40)年の改良工事の写真として,この地下通路の出入口を復活させたと思われる写真が掲載されている.広報誌に説明はないが,駅舎建て替えのため,新宿方の仮駅舎に移ったことから,一時的に地下の自由通路を復活させたのではないかと思われるのだが,ご存じの方は,ぜひ教示をお願いしたい.」

と指摘している写真そのもののようなのです。

ところで、この建屋の向かって右の軒先の、多分雨樋が「だらん」と下がっている光景(青丸の部分。排水のためワザとこうしてあるのかもしれません)には見覚えがありました。

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/27 (Thu) 18:15:38

〔パソコンの中を…〕

探してみたら、ありました。

小田急がかつて発行していた広報誌

「小田急だより」33号(1966年発行)に掲載されていた、この写真(以下「1966写真」といいます)。

今から4年ほど前、2013年6月にネットオークションに出品されていたときに、下北沢駅の改良工事の写真は珍しいので、セーブしておいた画像です(こんなことになるなら、落札しとけばよかった)。

詳しい画像解析結果は、次ページで。

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/27 (Thu) 18:18:52

〔注目点は…〕




























写真左下の、青丸のところ。

雨樋らしきものの「垂れ下がり具合」がドンピシャで一致しています。

こうなると、1965と1966の2枚の写真、どこをどう撮ったのを知りたくなるのが当然。

手掛かりは、左上の赤四角の中のビル。
当時、小田急下北沢駅のホームの近くにあった、大きめのビルというと、
富士銀行(現・みずほ銀行)か、
第一銀行(現・オオゼキの場所)
くらいしか考えにくい。

で、このビルの写真が、探してみたら、あったのです。

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/27 (Thu) 18:27:30

〔この写真…〕

世田谷区立郷土資料館・編「写真で見る戦後復興期の世田谷」同館/2007年・刊 p.28 の、写真番号103「下北沢駅北口 昭和27年3月 北口から北北東を見る。」とのキャプションがついています。

実際、ほぼ中央に「[フウ=風の中が「百」]月堂」の看板が写り込んでいますので、下北沢北口に間違いはないことになります。

この左端のビル、外壁面に縦に柱のような形のでっぱりがあって、その間の奥の壁面に窓があること、正面からみて右端にやや広い平らな壁があって小ぶりの窓があることは、1966年写真と同じ。

したがって…〔次ページに続く〕

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/27 (Thu) 18:43:34

〔いうまでもなく…〕

これは富士銀行。

(地図は、図法と住居表示〔当地は昭和39年に住居表示実施のため〕がないことからみて昭和40年以前の
住宅協会地図部発行の「全住宅案内地図帳 世田谷区版」
と推定されます。)

したがって、1965年、1966年写真は、北口にある富士銀行とは、小田急の線路をはさんで反対側の南口方向から北口方向を写したことになります。

と、いうことは…〔次ページに続く〕

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/27 (Thu) 18:48:35

〔この地下道は…〕

昭和8年、帝都線(現・京王井の頭線)の開通時に設けられたという2本の地下道のうち、駅の改札外で駅舎の南西にあった、北口と南口を結ぶ「自由地下道」であることにまず間違いないことになります。

(地図は、推定・東京北澤通商店街商業組合・編「町内図」同組合/S09年ころ・刊 の抜粋を上下反転)

したがって、これは「第三の地下道」ではありえません。
そもそも工事中に使うだけの仮設通路のために、既存の線路に下に新しくトンネルを掘る、といったリスクの高い工事をする道理はなく、どうしても必要なら、東北沢6号踏切のところにあった仮駅のように、後の解体・撤収が簡単な、鋼鉄製の歩道橋をかけちゃうはずです。

Q.E.D.

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - 米澤邦頼

2017/04/30 (Sun) 00:28:31

なるほど!
これは間違えありませんね♪
ちょっと鮮明な写真を添付します。

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/30 (Sun) 23:24:46

〔クリアな写真…〕

ありがとうございます。
屋根の上の案内看板、何が書いてあるか読んでみたいのですが、あのサイズの網点分解された写真では難しいでしょうね。

しかし、1965写真も1966写真も小田急が保有していることは確実。いつか、機会をとらえて依頼すれば提供してもらえるかもしれません。

まだ、ざっとWeb上の情報を探った程度ですが、
(1)30年代中ごろまであったとか、
  https://www.youtube.com/watch?v=0dFuCaGZSxc
(2)30年代終わり近くまであった
  上記ページへのコメント
  
といった情報が錯綜している模様。

ただ、(2)は、40年ころ始まった駅舎の建替え工事で再開されたときのお話かもしれませんし、(1)も何分戦時中の昭和19年製の安普請となると、30年代初めに改修工事が行われたときに一時再開されたときの記憶の可能性も否定できません。

北口には、
・中学時代には鉄道模型用の塗料を買うために6号踏切近くの西尾塗料店(ただし、たいていは、東北沢駅北の「岡安」というおじいさんのやっている店で間に合った)
・高校時代には「闇市」の中、6号踏切すぐそばの、サイキ画荘という画材屋さん(たいていはホルベインのジンクホワイトかカーマインレッド)
位にしか用がなかったので、めったに木造時代の駅舎は通らなかったのですが、南口の急な階段の踏面(ふみづら)は、木の下地にアスファルトが塗られ、雨の日にはアスファルトの凹みに水が溜まっていたと記憶していますので、何度かは、通行止めにしてメンテナンス工事が行われていた可能性もあります。

米澤さんの尽力で実現した、地下通路南側入口の巡検の模様は、こちら
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/ShimoUGroad.htm

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水

2017/05/02 (Tue) 21:57:31

【自由地下通路北口】

 下北沢駅地下化工事の過程で、いわば瞬間現れた、北口の井の頭線に並行した地下構造物の遺構。

 問題の自由地下通路の北口かと思っていたのですが、どうもおかしい。

 なぜかといえば、当地一帯は、西のいわゆる鎌倉道をピークとして、東の里俗・森厳寺川(≒茶沢通り)に向かって「ダラ下がり」になっています。

 ここまでで判明したように、地下道の南口が小田急線の線路下を、ぎりぎりの高さでクリアしているとしても、そこから水平に地下道があるとすれば、北口のそれがこんな高い位置に来る道理がありません(逆に、この高さで水平に地下道を設けても、小田急の線路と干渉してしまうはずです)。

 この構造物の向かって右の部分は、下北沢駅が橋上にあったとき、改札を通った後、左、左とターンし、階段を下って少し進んだ後、右に曲がって少し進んでから、左・右とシケイン状に曲がった後で、階段を昇って井の頭線のホームに出る通路の床版だったことは、写真右端に築堤の切り欠きが見えることからまず間違いないようなのです。
 しかし、それだけならば、こんな断面が四角い函状に作る必要はありません。

 はて、これはいったい何なのでしょうか?

Re: 「下北沢地下道写真」の解析 - きむらたかし@三田用水

2017/05/03 (Wed) 07:32:55

【別アングルの写真…】

で見ると、赤矢印で示す連絡通路の床版と考えるほか、ないようです。

代沢芸術祭2017 - きむらたかし@三田用水

2017/04/03 (Mon) 20:16:39

〔昨年に続き…〕

今年の連休も、さらに拡大・充実して開催されることが、昨日の地図配りの折にお目にかかった、矢島宮司@北沢八幡神社のお話でわかりました。

5月6日の聖三一教会のパイプオルガンは、昨年の芸術祭の後、秋のバザーでも演奏が披露されて、ここ1年で一気に定番イベントになった感はありますが、個人的に今年の注目株は、
5月1日の北澤八幡神社(の多分神楽殿)での
デキシーランドジャズ
の公演です。

Re: 代沢芸術祭2017 - きむらたかし@三田用水

2017/04/03 (Mon) 20:37:52

【各公演詳細】

Re: 代沢芸術祭2017 - きむらたかし@三田用水

2017/04/04 (Tue) 21:01:08

[聖三一教会の…]

パイプオルガン。

2016/05/05撮影

〔Summicron35asph.〕

Re: 代沢芸術祭2017 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/05/01 (Mon) 18:28:47

〔今日5月1日の…〕

北澤八幡神社神楽殿での「デキシーランドジャズ」の公演に雷雨の中行ってきました。

カレンダーでは平日ですので、聴衆は高齢者があらかた(me too )ですが、なんのかんの言っても、全員戦後世代(FEN世代ともいう)、天候不順の中でも結構盛り上がりました。

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/04/2017-df69.html

〔井の頭〕公園開園100周年記念乗車券 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/24 (Mon) 18:34:43

〔この種の…〕
記念乗車券類については、よほどの「お宝画像」があれば別として、個人的には全く興味がないのですが…

一応、お知らせしておきます。

歩く会128回目 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/04/24 (Mon) 09:25:29

第10回目。当初駒澤のみだったが、今回からは駒場地区も入れる。

ダイダラボッチの地名 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/04/19 (Wed) 21:22:15

207.4.19日朝日新聞30面記事、第二東京

パソコンを買い替えて画像の処理がまだわからないのです。

Re: ダイダラボッチの地名 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/21 (Fri) 00:27:10

[「武蔵野大会」なので…]
世田谷に特化した講演はなさそう。
とはいえ、講師のお一人、長沢利明先生には

世田谷のボロ市の発達史と現況
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1638&item_no=1&page_id=13&block_id=41

との論文があるようです。

Re: ダイダラボッチの地名 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/23 (Sun) 18:24:44

〔しかし…〕
主催者のはずの、この「日本地名研究所」のweb
http://chimei.people.co.jp/
はともかく(それなりにマンパワーが必要なことは理解できるので)、たかが、ファイスブック
facebook
https://www.facebook.com/nihonchimeiken/
にすら全くインフォメーションがない!

いったい、ここ、どうなってるのやら…(というより、「マトモに組織が運営されていない」と判断されても致し方ない状態)

ここまで「変」だと、創始者の谷川先生が「泣くぞ」と言いたいです。

代田のダイダラボッチの弁天池 - きむらたかし@三田用水

2017/04/16 (Sun) 23:48:51





















[写真は…]
まだみつかりませんが、地図上では、ほぼ位置が特定できました。

 S05の東京府荏原郡世田谷町全圖で見ると、この付近では地番の境界は基本的には直線状に区切られているのに対して、1037番の土地だけは、略半円形というか将棋のコマのような形で、島のようにそれらの中に浮かんでいます。

 この1037番という地番は、この一帯の宅地造成時に他の土地に合筆して吸収されたときに消えたようで今は残っていませんが、現在の住居表示でいえば、代田6-17とその西の6-18の境界の道路の南から5分の1あたりの場所のようです。
 

Re: 代田のダイダラボッチの弁天池 - きむらたかし@三田用水

2017/04/18 (Tue) 15:18:09

[昭和初期の…]
弁天池をはじめダイダラボッチの模様については

講演会余録「代田のダイダラボッチ」の弁天堂
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/10/post-0ecb.html

の、代田の長老・秋元一男さんのお話をお読みください。

Re: 代田のダイダラボッチの弁天池 - きむらたかし@三田用水

2017/04/19 (Wed) 18:25:23

[明治維新後の…]

地租改正のための測量にはいろいろドタバタがあったらしいのですが、代田の弁天池もおそらくそうでしょうが、近世期の「除地」つまり信仰的理由による非課税地については、周囲の農地や宅地とは別に、近世期の非課税地のまま残すためと推測しますが「島状」の独立した画地として残した可能性が高そうです。

「ダイダラボッチの弁天池」はいわば凹地のそれですが、凸地にもその例があって、今の代官山ヒルサイドテラス内にある「猿楽塚〔赤矢印〕」や、そのすぐ南西の「猿楽小塚〔青矢印〕」も、独立した地番を付けた「島状の画地」となっていました。

Re: 代田のダイダラボッチの弁天池 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/04/19 (Wed) 18:55:08

今朝の朝日新聞 山本さんは行くと言っておられます。皆さんどうですかという誘いがありました。

Re: 代田のダイダラボッチの弁天池 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/19 (Wed) 19:12:41






























【註:画像を差換えましたので、今の状態では読めます】

[この記事…]

画像が小さすぎて、中身が読めません。

あわせて、出典(「朝日新聞」2017年何月何日の「朝or夕刊」、もっともここまでは記述からわからなくはありませんが、資料の特定という意味ではさらに「何面」かもお願いいたします(時間が経つと意味がでてくる情報ですし、今現在でも図書館で該当の記事をさがすのに不可欠ともいえる情報ですので。∵朝刊だととくにページ数が多い+この記事は結構小さい)

【追記】
無理無理画像を拡大して冒頭の状態にしてみたところ
・どうやら、この日本地名研究所
http://chimei.people.co.jp/
の企画らしいこと
 しかし、なぜアドレス末尾が「co.jp」なのでしょうか?
 民間研究団体なので「ac.jp」は無理でしょうが、非営利団体ならせめて「or.jp」のはず。
・この企画では、別に「代田のダイダラボッチ」を巡検するわけではなさそうなこと
がおぼろげながら見えてきたのですが、当たってますでしょうか?

 しかし、日時、申込先などは読み取れません。

原・小田急線北澤停留場 - きむらたかし@三田用水

2017/04/15 (Sat) 23:25:24

[つまり、現・下北沢駅…]

周辺の大正15年の測量図が、東京都公文書館に収蔵されています。

「公開件名:土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図】〔荏原□世田谷町大字下北沢字下山谷  日蔭山 新屋敷 西山谷〕《小田原急行鉄道(株)》
収録先の請求番号:305.F6.06 , 305.F6.07」

 ただ、これは、青写真をマイクロフィルムで撮影したものを、スキャナでデジタル化したものなので、北澤停留場の平面図よりはマシとはいえ「読める」図面にするには、相当手間取りましたが、それに、いくつか注記を補入したものを置いておきます。

 停留場(=駅)の場所は、今というか、地下化する前と全く同じことが、測量図に表示されている地番から明らか。
 つまり「下北沢駅は最初は一番街西(の東北沢4号踏切)の所にあった」などというのは、全くの妄想というか都市伝説に過ぎないことがわかります。



 

Re: 原・小田急線北澤停留場 - きむらたかし@三田用水

2017/04/15 (Sat) 23:36:51

[ついでに…]

北澤停留場の平面図。

 こちらは、どうやっても不鮮明なので、トレースしてみました(測量図とは南北が逆なのでご注意を)。

 開通当時の道路と停留場の位置関係をみると、どうも、開通当時から昭和8年までは、旧大山谷(=現・東北澤)6号踏切脇に駅舎があったようにも思えます。

Re: 原・小田急線北澤停留場 - きむらたかし@三田用水

2017/04/16 (Sun) 00:20:54






























[ついでの、ついで]

3年ほど前、ネットオークションに出品されていた「小田急だより No33」1966年(昭和41年)・刊に、下北沢駅の改築工事の記事がありました。
「下北沢駅は、一日の乗降客8万人、そのうち井の頭線への乗換客は5万人を占め、当社線でも指折りの大駅です。現在7,200万円の総工事費をもって改良工事が進められており、41年8月には、面目新たな駅として登場します、これまでの木造跨線橋にかわって、すべて鉄骨構造に改築されるので.建設位置や機能は、旧跨線橋とほぼ同じですが.面積か480㎡から655㎡と広くなり、一般通路(橋上駅舎前、南北連絡通路)の巾も3.6mから5mに拡げられます。跨線橋とホームの連絡階段は、上下ホームとも両そで階段(2カ所ずつ計4ヵ所)となり、去る40年9月にできあがった、上りホームから井の頭線への連絡地下道とあいまって.乗降客の流れはいっそうスムーズになるものと思われます。」

東京新聞:里俗「シモキタ闇市」関係記事 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/12 (Wed) 21:26:29

[金ちゃんが…]
発掘。

2017年4月9日
下北沢 さよなら駅前食品市場 発展の歴史語る写真展
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201704/CK2017040902000171.html?ref=rank

also

2017年3月30日 朝刊
シモキタの名所が今秋終幕 戦後闇市起源の「駅前食品市場」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201703/CK2017033002000141.html


「中原百貨店」 - きむらたかし@三田用水

2017/04/10 (Mon) 18:15:54

〔続けて…〕

「グラフせたがや」の41(H03冬)号p.32

世田谷中原(現・世田谷代田)1号踏切際 +
堀之内道西側

にあった由。
左端の「屋上」(本当に人が歩きまわれる構造だったのかはアヤシイ)の、大売り出しの景気づけらしい「楽隊」が、涙モノです。
 S20/05の山の手空襲で焼失。

Re: 「中原百貨店」 - 北沢川文化遺産保存の会

2017/04/10 (Mon) 18:29:20

この写真、女の子が踊っているのをみんな見ているのでしょうか。出し物でしょうか、越後獅子? 

Re: 「中原百貨店」 - きむらたかし@三田用水

2017/04/10 (Mon) 20:07:46

[この写真の手前…]

一体、何をどこから撮ったのわからないのです。

 小さな女の子が踊っている(?)場所は、板張りの舞台みたいに見えるのですが、店の前の観衆の真ん前だとすると、堀之内道。当然、環7開通前で、当地の主要道路のはずなので、塞ぐわけにはゆかないはず。

〔S11地形社図〕

 一方、堀之内道の反対側にかなり高い舞台を設えたと考えられなくもないのですが、何しろ駅前の商店街。同ページの地図によれば、百貨店の正面には北から、郵便局、文具店、タバコ屋が並んでましたので、それも難しそうです。


Re: 「中原百貨店」 - 米澤邦頼

2017/04/11 (Tue) 02:21:32

この写真は鎌倉通りに有った中原百貨店です。
丸松物産(メンマ工場)・エグザス(スポーツジム)が有った所です。板張りの下はダイダラボッチ川。
この号のグラフ世田谷では、中原百貨店と世田谷代田駅近くの中原市場を混同している様です。

Re: 「中原百貨店」 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/11 (Tue) 08:35:40

[なるほど…]
それだと、写真の右端あたりが、商店街にしては妙にのどかなのが納得できます。

要するに、地図(アメリカ陸軍のAMS map "SETAGAYA,JAPAN HONSHU"
http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-11.jpg
抜粋)の
「グラフ…」のいう青矢印の場所ではなくて、赤矢印の場所の昭和8年の写真ということになりますね。

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51010504.html
に「開業時、この屋上には楽隊を置いて。そして鳴り物入りの華々しいセレモニーを行った。」とあるのとも整合します(写真左下のポスターに「開店 福引大売出」とある。ただし、整合しているのは「屋上の楽隊」だけで、写真を見る限り、開店セールにしては、あちらこちら粗雑な設えで、華々しい感じが全くしませんけど)。

Re: 「中原百貨店」 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/11 (Tue) 17:41:48

[AMSマップを…]
見ていて気づいたのですが…

 ここは、里俗・だいだらぼっち川沿いの田圃の排水路(悪水路)沿いに位置しているようです。
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/10/post-0ecb.html
の、秋元一男氏の
「・田んぼは(上流側から見て)右側だけで、左側に田んぼはなかった」
との発言参照) 

 したがって、手前の板敷の部分は、別にわざわざ舞台を作ったわけではなくて、南西の道路から「中原百貨店」に、この悪水路を渡るために作った「幅の広い橋」のようですね。

加えて…

 この位置関係についての「私の推定が確かならば」写真右奥の土手のような場所は
・小田急線の築堤
ということになります。

〔ベースの空中写真は
帝国陸軍1936(昭11)/08/14撮影空中写真 ID:B1-C1-20
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=719300&isDetail=true

Re: 「中原百貨店」 - 米澤邦頼

2017/04/11 (Tue) 23:49:39

『土手のような場所』は現、都民教会がある、斜面です。
撮影場所は小田急築堤を背にしていると思います。
メンマ工場時代の水路は、南側に開渠(環七方向からの『どぶ』も合流)・東側に板張暗渠が有りました。舞台は板張り暗渠の上だと思います。(画像はgoo地図S38年から)

Re: 「中原百貨店」 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/12 (Wed) 01:04:35

〔結局…〕
こんな位置関係でしょうか?
〔ベースは s22のgooMap〕

Re: 「中原百貨店」 - 米澤邦頼

2017/04/12 (Wed) 01:35:51

撮影位置はほぼ合っていると思います。
もしかしたら築堤の上から撮影しているかも?

Re: 「中原百貨店」 - きむらたかし@三田用水

2017/04/12 (Wed) 13:00:12

[水路の変遷]

この中原百貨店前の水路、なんとなく「納まりが悪い」(一言でいえば、「低い」悪水路から「高い」用水路に向かって、水を流そうとしていたことになる〔当然「無理」〕)ので、ちょっと考えてみました。
 小田急開通のころになると、この地域(とくに小田急線東側)の水田はほば消滅していたはずで*、そうなると、従前のように、用水路と悪水路という2本の並行する水路を維持する必要はなくなります(地域の下水溝としては機能していた)**。
 そこで、小田急開通のころと推測しますが、築堤の西、後の中原百貨店の前に、用水路から悪水路に水を落とす水路を作って水路を1本化したうえで、築堤の下にカルバート(角型コンクリート管)かヒューム管(円筒形の鉄筋コンクリート管)を埋めて、下流の水路に接続しているのではないかと思います。


*より精確には、小田急開通による近い将来の宅地化を見越して、水田の形を保ったまま、水を入れることなく、いわば「耕作放棄」していたと思われる。直前の大正13年ごろの直近の代々木村に類例がある(那須皓「代々木村の今昔」〔柳田國男・編「郷土會記録」大岡山書店/T14・刊 所収〕pp.116-136)。
**渋谷区の事例ながら、この種の経過については、
 田原光泰「『春の小川』はなぜ消えたか」之潮/2011年・刊
に詳しい

昭和24年ころの北沢中学 - きむらたかし@三田用水

2017/04/09 (Sun) 13:19:50

「グラフせたがや」48(H06秋)号 p.29

「校庭の真ん中」を流れていた小川。
ということは、森厳寺川の源流部ということになります。

Re: 昭和24年ころの北沢中学 - きむらたかし@三田用水

2017/04/09 (Sun) 13:22:30

「グラフせたがや」48(H06秋)号 p.28

第1期工事で3年生の校舎が完成したS24の秋ころと思われる写真。
手前が鎌倉通り、右端が水道道路と思われます。

Re: 昭和24年ころの北沢中学 - きむらたかし@三田用水

2017/04/10 (Mon) 15:54:44

[冒頭の写真は]

赤矢印の小川と思われます。
(M42測S03修測3_世田谷+S06部修_中野接合図を抜粋+矢印補入)

地図の、
左端を縦方向に走っているのが里俗・鎌倉道
下から3分の1あたりを横方向に走っているのが水道道路(現・井の頭通り)
です。一応、念のため。

文化地図シート - きむらたかし@三田用水

2017/04/05 (Wed) 17:02:32

〔2日に…〕

レスキューした、シート状の大版「下北沢文士町文化地図」。

 裏側の両面テープ跡は、結構強力に貼りついているのでアセトンなどの溶剤を使わないとはがれそうもないのですが、印刷インクどころかベースのプラスティックシートまで溶かしちゃいそうですので、シートの補強を兼ねて、テープ跡の上に、手許のグラスファイバー入りのテープを重ね貼りしておきました。
 よくよくみると、講演とか研究会などのときも、シートなので丸めて運べるうえ、鳩目で補強してあったり、明らかにパネル状のものより使い勝手がよさそうです(ちょうど手許にあった、ダイソーで買った安物の図面ケースに、巻いてなんとかおさまりましたし)。
 スカイホールの鉄製の壁とかホワイトボードなら、マグネット止めできますし、鳩目穴を利用して図のように吊り下げることも可能です。
 簡単に補入できそうなポイントだけですが、テープライタで追記して、折をみて邪宗門に持ってゆきます。  

Re: 文化地図シート - 北沢川文化遺産保存の会

2017/04/05 (Wed) 18:21:08

ありがとうございます。

 ゲリラ的に地図配るときなどは使えそうですね。信濃屋から椅子机を運ぶのは結構大変です。

 我らの会員や会友にトラック、軽のトラック持っている人がいれば運ぶのは簡単ですが…誰か、年に一、二回協力してくれる人いませんか。代田信濃屋から橋場橋安吾文学碑まで…机2と椅子9です…

Re: 文化地図シート - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/05 (Wed) 18:35:01

〔軽トラックでも…〕

ギリギリ乗りそうですね。
http://www.商用車.jp/kiso/sunpou.html

ただし、ワゴンを持っている人の方が多そうですし、そちらだと車種によっては無理
http://k-wgn.com/nisitu.html

Re: 文化地図シート - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/05 (Wed) 18:46:17

【考えてみると…】

今の状態では、今後徐々に全員が→準古老→古老化してゆくのが必定(当方も「アラセヴン」)。

 世田谷はまだマシのようですが、あちらこちらの郷土研究団体が、まず、会報雑誌が出せなくなり、最後に団体自体が消滅する、というパターンで死屍累々の由。
(歴史研究家デビュー 連載 郷土史研究の実践方法 1~6
http://blog.goo.ne.jp/h-6943m2906/e/a5fb3926e75eaffad9fb13850938e8fb
以下参照)

 まずは、地図だけでなく、ゲリラ的に動けるようにという目的もかねて、装備の軽量化を考えた方がよさそうで、椅子・机も、要らなくなったキャンプ用(「子供がもう一緒に遊んでくれなくなった」とか)のを誰かが寄付してくれれば、モノによっては路線バスに持ち込んででも運べますし。

第七版地図の配布について - 北沢川文化遺産保存の会

2017/03/30 (Thu) 18:33:38

桜祭りでの地図の配布(変更)
 
 春の恒例行事となっている地図の配布活動を行う。今回は新版地図を配るものである。花見見物に訪れた人に配るものだ。毎年これで千部程度がさばけている。地図くばりは仕事ではない、配ることを通して人と話をする。そこから新しい情報がつかめたり、また、文化についての議論が深まったりもする。ゆえに地図くばりは楽しい娯楽である。
 地図配りを通して、楽しい、おもしろい会話ができる。それゆえにおいでください。
 配布日については天候の悪化が予想されていることからこれを変更したい。
 
配布日 4月1日(土) 雨と低温とのことで中止
     4月2日(日) 予定通り
     4月3日(月) 土曜日の振り替え
配布時間 10時から15時30分まで
場所    代沢小学校安吾文学碑前(北沢川緑道橋場橋たもと)
なお、いつも通り代沢小から机2脚、椅子12脚を借りて行う。校内から運び出すとき に人手が要ります。手伝ってくださる方、9時30分に安吾文学碑前に集まってください。なお、二日目については東邦薬品から机と椅子とを借りることにした。
  当日、これまでに発行した紀要全部を並べる。今回新しくできた 東京の巨人伝説の中心地「代田のダイダラボッチ」も置く。毎年紀要を発行しているがこれに寄付をしていただいたものを費用に充てたい。1、2、3、5号については、300円、4号については500円寄付してください。地図は無料で配布する。なお、改訂7版地図と紀要第5号「代田のダイダラボッチ」は世田谷邪宗門でも手に入れられる。

 なお、花の咲き具合が遅いので4月8日、9日の配布も考えている。

Re: 第七版地図の配布について - きむらたかし@三田用水 URL

2017/03/31 (Fri) 19:54:13

【開花情報】
3月31日17:20現在
北沢1丁目
 松蔭学園______開花
 隣家________ほとんど未開花
 お向かいの1軒奥 __完全に未開花

Re: 第七版地図の配布について - きむらたかし@三田用水

2017/04/03 (Mon) 03:38:58

[Canon FD7.5/5.6]

[昨日は…]

お疲れ様でした。

Re: 第七版地図の配布について - きむらたかし@三田用水

2017/04/04 (Tue) 20:43:59

[この先…]

当分、このアングルでは撮れないので。

〔Canon(S)35/2.0〕

帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/08/22 (Mon) 11:10:46

〔「母家」…〕
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52026052.html#comments
にも書きましたが


東京都公文書館のデータ
http://www.archives.metro.tokyo.jp/
によると…

東京都内の「帝国*音楽学校」については、3校分の記録があります。

1 大正06年認可 帝国音楽学校 牛込区所在
2 昭和02年認可 帝国音楽学校 荏原郡世田谷町所在
3 昭和14年認可 帝国高等音楽学校 世田谷区所在

なお、
1については、
 認可の記録しかなく、その後不可欠になるはずの「校長就任認可」などの記録がないので、実際に開校したかどうかは疑問です。

2については、
 昭和02年校長就任認可、03年校長事務取扱就任認可、04年と09年に学則変更認可の記録があること
 昭和05年の東京府荏原郡世田谷町全圖をみると後述の代田701に「帝国音楽学校」が記載されていること
 「音楽年鑑」楽報社/昭和03年・刊にも「所在地 府下世田谷町代田七〇一」「校長福井直秋氏…」などと具体的な紹介記事があること
から、実動していた学校であることはまず間違いありません。

3については、その認可前のはずの昭和12年発行の大日本職業別明細図にこの学校の名称が記載されていて、あるいは、事実上この名前を使っていたのを、学則をこれに合わせて改組した可能性もあります。ただ、当時は「高等」という呼び方に今ほどの「しばり」があったわけではありませんので、その程度のことなら、学則変更でも済みそうな気もしますが。

【以上「母家」】

さらに、国会図書館にある
大日本音楽協会「昭和16年度 音楽年鑑」共益商社書店・刊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109457
をみると、

巻頭の広告では
 昭和7年創立 と学校自体が明記しているのですが…

本文中の記事では
 昭和2年4月創立。幾多の變遷を經て、昭和12年田村虎蔵校長となり…
 (なお、声楽の教授陣中に、民藝運動の柳宗悦の夫人、柳兼子がいます。すでに世界的といってもよい名声を得ていた声楽家ですので、この時点ではかなり「しっかりした」学校だったと思われます)

と、さらに事態がヤヤコシくなります。

いずれにしても Wiki に書かれている、昭和6年設立の「帝国音楽学校」は年鑑のデータを含めても「存 在 し な い」うえ、昭和6年が、いわゆる「節目の年」でも何でもないことになるので、まず、その記述の信ぴょう性自体を疑ってかかる必要があり、そのまんま、それを敷衍してゆくのはやはり危険です。

Re: 帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/08/22 (Mon) 11:19:19

〔音楽年鑑S16の…〕
広告と奥付

Re: 帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/08/22 (Mon) 11:55:44

〔音楽年鑑S03〕
「音楽年鑑」楽報社/昭和03年・刊 の方の
記事と奥付

Re: 帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水

2016/08/22 (Mon) 12:05:31

〔「大日本職業別明細図 世田谷区」S12/12刊〕
世田谷中原周辺抜粋

Re: 帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水

2016/08/22 (Mon) 12:13:41

〔「東京府荏原郡世田谷町全図」S05〕
世田谷中原周辺抜粋

Re: 帝国音楽学校 - 北沢川文化遺産保存の会 URL

2016/08/22 (Mon) 17:22:16

帝国音楽学校の創立が昭和2年4月、とすれば小田急開通を見越してのものだということになりますね。確かにウィキのはアバウトだと思います。

 ネットにはこの学校のことを調べている久保絵里麻さんのことが載っています。彼女には邪宗門で会ったことがあります。(明治学院大学大学院博士後期課程2014年修了 芸術学博士)
第二回研究会で話してもらおうかと言っていたのですが、連絡が取れませんでした。彼女、台湾で発表していますが、後ろに写されているのは帝国音楽院のマーク、それと二階建ての校舎だと思います。http://www.mg-geika.net/act02/conf/01.html

 鈴木禎一については全集があることを知りました。年譜で点検しようと思って目黒区の図書館調べましたが蔵書なし、ところが世田谷区にはありました。まだ見ていませんが。

 東京都公文書館、案外に家から近いところにありました。検索では建物図面もあるようで閲覧したいものです。

 研究会については評判がよく話をさせてくださいという方もおられます。今回の司会だった石坂さんも劇場のオーナーだったことが分かりました。長年、店とか、劇場とか、喫茶店をやっていた人、四五人に話してもらうのがいいかなと。ただ、やっぱり薄謝でも講師謝礼はしなくてはと思いました。

Re: 帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水

2016/08/22 (Mon) 21:16:55

〔久保さん…〕
というよりDr.なので「久保先生」ですが、背景のプレゼンを見ると、「[1928-1944]」となっています。

つまり、Dr.久保の認定では、同校は、昭和3年に開校し、昭和19年、かの山の手空襲以前に閉校していたことになります。

それぞれに、↑に書いたものとは異なる史料がないと、そうはならないはずで、それが何なのか、興味深いところです。

【史料といえば…】
都の公文書館のデータチェックは、いわばマストとして
国会図書館には、先にご紹介した昭和16年度版以前の音楽年鑑も、デジタルデータ化され、館内(または提携図書館)限定で閲覧・謄写可能です。
これらを手繰ってゆけば、昭和16年版にいう「幾多の變遷」の経過もトレースできるかと思います。

mision cumpleda

あとは、どなたか、よろしく。

【PS】
国会図書館の
レコード音楽技芸家名鑑S15
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1056525/211?viewMode=
によれば
「昨年4月学院を学校と改め認可さる。」
とありあります(212コマ左)。

一体どうなっているのやら…。

Re: 帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/08/25 (Thu) 09:54:18

〔こんな…〕

ページ
http://www.shiro1000.jp/tau-history/nazis/nazis.html
をみつけました。

年月日が特定されているので、かなり信ぴょう性の高い資料に基づいていると思われます…
が、Wikiの例もあり、裏どり不可欠。

Dr.久保の学位論文 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/08/25 (Thu) 10:25:26

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 



久保絵里麻「鈴木鎮一と才能教育―その形成史と本質の解明」7-Mar-2014
http://hdl.handle.net/10723/1942


論文本文

http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/1942/14/A33_text.pdf

の96ページあたりから、詳細な学校の経緯が書かれています。
(なんと、今津さんの「昔の代田」が参照文献として掲示されています)

おおまかな結論を言えば
「3ないし4つの、『ほとんどまるで別の学校』が入れ代わり立ち代わり代田701の地に存続していた。共通しているのは『帝国』の名前だけ」

画像は、論文97ページの略年表を引用。

PS:Dr.久保は、ヴァイオリニストでもあります。
https://www.concertsquare.jp/blog/2010/2010070518.html

帝国*音楽学校年譜 - きむらたかし@三田用水

2016/08/25 (Thu) 17:23:04

ヤヤコシクなってきたのでここまでのまとめです

Re: 帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水 URL

2016/09/03 (Sat) 00:13:40

〔柳宗悦夫人…〕
兼子について、こんな論文

高 仁淑「柳兼子の公演活動と朝鮮における民芸運動」
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/3668/KJ00004167265.pdf

を見つけました。

「東京高等音楽学院は,学校の紛糾が起き,東京高等音楽学院と帝国音楽学校に分裂したが,柳兼子は,東京高等音楽学院と帝国音楽学校で声楽を教えることになり,終戦まで朝鮮人留学生にも音楽レッスンを行なった。その時の東京高等音楽学院の出身音楽家が洪蘭披,洪成裕,金元福等であり,帝国音楽学校卒業生が仝鳳楚,羅遅発,孫牧仁らである。」

Re: 帝国音楽学校 - きむらたかし@三田用水

2016/09/03 (Sat) 13:39:38

[鈴木釣り堀写真]

この界隈で釣り堀というと、森厳寺川の水道道路との交点南のが有名ですが、帝国音楽学校からはちょっと遠すぎませす。

で、あるいは
北澤用水のタマデン山下の西
か?

2か所あったうち、東の方のは河川改修時になくなっていますし、地形的にみても西よりの方のかと。

しかし、何を釣っているんでしょうね。ヘラブナにしては道具が華奢すぎですし、さりとて、ゲンゴロウブナあたりなら何も釣り堀に来なくても、そこいらへんの川でいくらでも釣れたでしょうし。


【余談】
日本の釣り(和釣)に詳しい友人の話では
「釣りはフナに始まりフナに終わる」
と言われていたようです。
で、
「始まりのフナ」がゲンゴロウブナ
「終わりのフナ」がヘラブナ
の由。
 まぁ、ほかにも、「タナゴ釣り」なんていう、気の遠くなるような超マニアックな釣りの世界もありますが。


所在地は… - きむらたかし@三田用水 URL

2017/04/04 (Tue) 10:47:11

[東京府荏原郡世田谷町大字代田字『吹上』]

旱天には大根畑から立ち上がる砂塵が、降れば降るで雨粒が、校舎に吹き付けていたのでしょう。

http://www.shiro1000.jp/tau-history/reikichi/onngaku.html

の校舎の写真を見ると、出入り口が正面ではなく横を向いていて、風除け室の造りになっています。
 あるいは、後から増築したのかもしれませんね。

【追記】
写真の上端中央やや右に鉄塔の一部が写り込んでいます。この鉄塔は校舎の東にあったので、この写真は、校舎の北面の校庭で撮影されたものということになります。

東京空襲計画図 - きむらたかし@三田用水 URL

2017/03/28 (Tue) 22:47:06

母家の
爆撃機B29記憶の掲示板(空襲、墜落、被害など)
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51698368.html
関連。

越沢明「東京都市計画物語」中央経済評論社〔都市叢書〕/1991・刊p.193 掲載の「東京空襲計画図」

1942(昭和17)年の日本の新聞でも報道された(おそらく、中立国経由の情報)アメリカの雑誌に掲載されたものとのことなので、開戦直後に作られた図ということになりそうです。

ほぼ完全に「読まれている」わけで、いわゆる地図の戦時改描
http://collegio.jp/?p=783
なんてただの時間と手間のムダを通り越して、ただのおバカの浅智慧だったことがわかります。


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