〔「困ったときのcinii」で…〕
あたってみたら、こんな
青柳 周一「富士講と交通 : 江戸の富士講を題材に」
交通史研究 (33), 10-27, 1994-05-20
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0010541419
論文がありました。
興味深いのは
江戸幕府はたびたび富士講について禁令を出したが
「そのほとんどが江戸内部での富士講の活動を禁じるものではあっても、富士参詣そのものについて言及するものがな」く
かえって、「一八〇五(文化二)年に出された触」は「街道筋の旅籠や商人の生計を保障するため、富士・大山参詣者の海上往来を禁じて、街道を通行するよう指示したものだが、この触の物語ることのひとつは、こうした参詣者が街道筋に居住する人々の生計を左右するほどの数となってい」て、
とりわけ「元来、富士参詣者のほかにも馬による交通労働や畑地からの農作物の収益に生計を頼っていた須走村も、一七〇七(宝永四)年の富士山噴火によって畑地・秣場が荒廃するに致り、生計を富士参詣者を対象とする諸業務に、ますます依存する度合いを深めざるを得なくなった」
つまり、幕府も「富士参詣者中に富士講の占めていたであろう割合の高さを考えると、江戸内部では富士講の活動を禁じつつも、一方で街道筋の商人達の生計保障のため、その存在と参詣を認めざるを得ない、というジレンマに落ち入ってい」た
との指摘です。
こういう事態になっていたのは、この文献によれば、江戸時代は「お行儀の悪い」富士講が多々あったせいで、引用の一七九五(寛政七)年正月の町触には、
「 町触
町中にて職人日雇取、軽商人等講仲間を立、修験之袈裟をかけ、錫杖を振、唱事申連、家々之門二立、奉加ヲ乞、又は病人等之祈念を被頼、寄集、焚上と申、藁を焚、大造ニ経を読、俗ニて山伏躰ニ粉敷儀致候由、并大造成梵天を拵、大勢にて町々を持歩行、家々門々之幣を挿し、初穂を乞、中ニは少し遣候得は及口論候旨相聞、
甚不埓之至候間、早々相止可申候、且又神事抔ニ事寄、店々より為致出銭、少々出候得は仇いたし儀、間々有之由相聞候、向後右躰之儀堅致間敷候、若於相背は、吟味之上急度可申付候、此旨町中不残可触知者也、
右之通、安永四未年五月中相触候處、近年富士講と号、奉納物建立を申立、俗二て行衣を着、鈴最多角之珠数を持、家々之門二立、祭文を唱、或は護符守等出し、其外前書同様之儀致候もの有之趣相聞、不埓之至二候、以来右躰之儀堅致間敷候、若於相背は召捕、吟味之上急度可申付候、此旨町中可触知者也、
卯正月」
とあって、結構笑えます。
また、慶長18年(1613年)の修験法度によって、真言宗系の当山派か天台宗系の本山派に帰属していた
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/01/post-a1bc.html
「加持祈祷」の本家ともいえる修験者からも
「講外之族迄祈祷相頼、修験永檀之者も富士講ニ相傾、修験帰依薄く罷成、職業日営取成行可申<ヨリ>迷惑仕候」
「畢竟法者<ヨリ>俗人<ヨリ>差別難相分、混乱之次第」
とのクレームが幕府に寄せられていたようです。
【追記】
御一新の御代になっても、似たような困った人たちがいたようですね
http://www.archives.metro.tokyo.jp/detail.do?smode=1&tsNo=1&id=659161&lbc=-1
「富士講其外種々之講銘を唱候者 其講之目標に日章旗号を持歩行候者有之哉に相聞候 件不宜之儀庶務本課より御沙汰に付 当番世話掛より達」(適宜スペース挿入:引用者)
【追々記】
上記の「町触」。
厳密に読むと「富士講」という「結社」を禁止しているわけではなく、その振舞い、主として
・俗人のくせに法者、つまり公許の宗教家もどきの衣装を着けたり行いをする
・宗教的行事に「事寄」せて、町場で寄付を事実上強要する
ことなどを禁止しているだけで「お行儀よく」していれば「召捕、吟味之上急度…申付」けられことはなかったことになります。
まぁ、ご法度中のご法度の切支丹ですら、江戸時代の中頃からは、大っぴらに活動しない限り「見て見ぬふり」をしていた、との見方もあるようですし。
【追々々記】
ネット上のいろいろな方々の見解を読んでみると、上記の町触末尾の
「以来右躰之儀堅致間敷候、若於相背は召捕、吟味之上急度可申付候」
について、不正確な解釈をされている方が多いようで、「法律家の端くれ」としては「捨て置けない」のであえてコメントしておきます。
明治以降の日本もそうですが、いわゆる近代国家といえるための必須の条件の一つは「罪刑法定主義」。つまり、
・どのような行為をすると犯罪となるのか(罪)
・その場合どのような処罰を受けるのか(刑)
のルールが、あらかじめ明確に(通常は「法律」の形で)公表されていなければならないのです。
しかし、江戸時代の日本は少なくとも近代国家とはいえず、当初は「罪」も「刑」も公表しないのが原則でした(もっとも、毎回判断がブレてはかえって「公儀」の威信が崩れるので、公儀の内部では「原則として前例に従う」というルールがあったようですが、その「暗黙のルール」も当然ながら公表されていませんでした)。
しかし、大体、享保期あたりのようなのですが「罪」つまり「何が犯罪なのか」だけは、民に知らしめておいた方がよい、という考え方が主流となったようです(しかし、「刑」については、例えば「これをしてもせいぜい江戸払いか」とわかってしまうと、かえって犯罪を助長するのではないか、との懸念から公表しない方がよい、という見解が主流だったようです)。
つまり
「以来右躰之儀堅致間敷候、若於相背は召捕、吟味之上急度可申付候」
の文意は
「右躰之儀」は犯罪であり
どのような刑罰かは公表しないけれども、「急度」(きっと=必ず)何らかの刑罰には「可申付」(もうしつくるべく=処するぞ)
ということなのです。
平たくいえば
「急度可申付候」→「急度〇〇可申付候」(「〇〇」はいわゆる伏字)
なわけです。