〔今日…〕
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に行きました折、ロビーの書棚に
堀切森之助・編「幡ヶ谷郷土誌」幡ヶ谷を語る会/1993・刊
(ただし、渋谷区立図書館の書誌データや文体などからみて、原文は昭和12年ころ書かれたらしい。)
があったので、道路・水路・公共交通関係の部分をコピーしてきました。
その、「世田谷道(鎌倉街道)」の項(pp.35-)の末尾近くに、駒場道について
「執れは甲州街道開通後に造られた路ではあったらうが、古くから開かれてゐたであらうといふ事は、甲州街道からの分岐點の西角に幅八寸、厚さ六寸、高さ三尺程の「おほかみだに道」の古い石標があった事でも知る事ができる。唯だ惜しむらくは少年の頃に深い関心も無く見過ごして来た事であるから、その建立歳次の記憶が無い事である。しかしその歳次を知り度いと思へば大正の末年頃、この畑中道にも等しい小径を現在の三間道路に改修した際、この道路の下を東から西へ流れる下水道の暗渠の側溝材料に、此の石標を西角寄りへ埋没するのを目撃して居るのであるから、其所を掘返したならば此の石標を得て歳次を知る事も出来るであらう。
元来此の道は駒場道の本道では無い。それが地理的條件と時代の推移によって甲州街道開通以前から存在したであらうと推定される本道を、今は廢道同様の有様に変ぜしめて自ら隆昌を衿って居るが、これも寛文四年(一六六四年)八月以来代々木大上谷(狼谷)火葬場への道として、(新編風土記曰ふ。四谷西念寺勝興寺戒行寺麹町栖岸院心法寺五ヶ寺の拝領地、同上年茶毘所を造ると)多くの亡き人々の霊を送迎してゐるがため、その功徳によって本道以上に榮えたのでもあらうか。」(p.38)
とありました。
文中の「おほかみだに道」と刻まれた旧い石標。今も甲州街道と駒場道の交点付近の地中に眠っているのかもしれませんね。
(地図の原図は
東京逓信管理局「東京府豊多摩郡代々幡村」逓信協会/M44・刊
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https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Yoyohata-Toyo_CHOSON/Yoyohata-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html >参照)